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下位貴族の調律師が身分差を理由に逃げたら、次期侯爵の英雄が血まみれで追いかけてきました  作者: 黒崎 隼人


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第7話「夜啼く紅と刃傷」

 手のひらの中で激しく脈打つ青い光を、アイラは指先で強く握りつぶすように覆い隠した。

 石の奥から伝わってくるのは、皮膚を突き刺すような鋭い痛みと、底知れない焦燥の波だった。

 胸元の薄い衣を通して伝わる温度は、もはや微熱などという生易しいものではない。

 何かが起きている。

 この異常な波長の乱れは、彼が単に感情を揺らしているだけでは説明がつかなかった。

 工房の外では、いつの間にか夜の闇がすっぽりと街を覆い尽くしていた。

 遠くで、鐘の音が規則正しく三度鳴り響く。

 通常の見回りの時刻を告げる鐘の音に混ざって、通りを駆ける複数の蹄の音が、石畳を激しく叩き鳴らしながら近づいてきていた。

 それは一台や二台の馬車ではない。

 軍馬の荒い鼻息と、武具が擦れ合う硬質な響きが、防衛壁に沿った通りを一直線にこちらへ向かっていた。

 アイラは机から身を起こし、窓枠に手をかけた。

 外を見下ろすと、工房の正面入り口の前に、篝火を掲げた騎兵の一団が馬を急停止させるのが見えた。


「急げ、工房の扉を開けろ」


 階下から届いた怒声は、騎士団の副官の声だった。

 それに続いて、閂が乱暴に外される鈍い衝撃が、二階の床板を突き上げてくる。

 アイラはペンダントを素早く作業服の胸元へ押し込み、部屋を飛び出した。

 階段を駆け下りると、一階の広い荷解き場には、冷たい夜気と共に濃厚な鉄の匂いが充満していた。

 血の匂いだった。

 二名の騎士が肩を貸すようにして、一人の長身の男を中央の検品台へと運び込んでいる。

 泥と煤にまみれた藍色の外套。

 肩の銀モールは引きちぎられ、左腕の袖は付け根から裂けて赤黒い染みを作っていた。

 顔を伏せ、荒い息を吐き出しているその姿を認識した瞬間、アイラの足が床に縫い付けられた。


「ユージーン……」


 声にならなかった。

 喉が痙攣し、呼吸が止まる。

 いつも一片の乱れも許さなかったあの青年が、ぐったりと部下の肩に体重を預けていた。

 青白い頬には幾筋もの泥濘がこびりつき、額から流れる汗が乱れた前髪を濡らしている。

 彼を支えていた副官が、階段の足元に立つアイラの姿を見咎め、悲鳴のような声を上げた。


「調律師か。すまないが、すぐに止血用の布と薬酒を持ってきてくれ。医務室へ戻るまでの時間が惜しい。ここで最低限の処置を済ませる」


「な、何があったのですか……なぜ、隊長殿がこのようなお怪我を」


 アイラは震える膝に力を込め、検品台へと駆け寄った。

 台の上に仰向けに寝かされたユージーンの左腕から、鮮血が指先を伝って床へと滴り落ちていた。

 手袋は引き裂かれ、前腕の内側に骨に届かんばかりの深い裂傷が走り、筋繊維が断裂して痙攣している。

 傷口の周囲には、黒く変色した魔獣の体液がこびりつき、肉の魔力回路を激しく腐食させるように微かに煙を上げていた。


「北の坑道で、結界石の異常破砕が発生した」


 副官が短く告げながら、腰の短剣を抜いてユージーンの引き裂かれた袖を切り裂いていく。


「暴走した魔力に引き寄せられた変異種の群れが湧き出た。小隊長殿が単身で防衛線の裂け目を塞ぎ、鉱夫たちを逃がしたが……殿を務められた際に、崩落した魔石の破片と爪を同時に受けられた」


「そんな……。あの方の剣技なら、そのような初歩的な油断など」


「油断ではない。いや、精神的な疲労が限界を超えておられたのだ」


 副官の声が、悔しげに低く濁った。


「この数日間、隊長殿は一睡もなさっていなかった。夜会の翌朝から、狂ったように演習と見回りを繰り返され、周囲の制止も聞かずに最前線へ出撃された。まるで、自ら死地を求めているかのように……」


 心臓を素手で鷲掴みにされたような衝撃が、アイラを貫いた。

 夜会の翌朝から。

 あの凍てつく回廊で、自分が彼を拒絶し、背を向けて立ち去ったその直後から、彼は己の身を削り続けていたのだ。

 引き出しの奥で、石が悲鳴のように明滅していた理由が、あまりにも残酷な現実となって目の前に突きつけられる。

 彼を追い詰めたのは、他ならぬ自分自身だった。

 自分が身分を盾にして彼を突き放し、冷たい言葉を浴びせかけたからこそ、彼は自暴自棄な戦いに身を投じたのではないか。


「……アイラ」


 低く、かすれた呼気のような声が、血の海の底から浮き上がるように響いた。

 検品台の上で、ユージーンがゆっくりとまぶたを押し上げていた。

 失血と激痛のために焦点の定まらない藍色の瞳が、夜の光を吸い込んで濁っている。

 彼の手が、血に濡れた右手をわずかに持ち上げ、空中で彷徨った。


「ここに、いるのか……」


「隊長殿、喋ってはいけません。傷口が開きます」


 アイラは彼の元へ膝をつき、差し出された右手を両手で受け止めた。

 冷え切った指先。

 剣だこで硬くなった手のひらが、氷のように冷たく、微かに震えていた。

 いつも自分を威圧し、距離を保っていたあの大きな手が、いまは頼りなげにアイラの指にしがみついている。


「……任務での、ほんの少しの油断だ」


 ユージーンは痛みに顔を歪めながら、途切れ途切れに言葉を絞り出した。

 唇には血の気がなく、白く乾ききっている。


「大した傷ではない。……お前が、そんな泣きそうな顔をするほどの、ことではない」


「嘘をつかないでください」


 アイラの目から、熱い雫がこぼれ落ち、彼の手の甲を濡らした。

 大した傷ではないはずがない。

 骨が見えるほどの裂傷と、魔力の腐食。

 一歩間違えれば、二度と剣を握れなくなるほどの重傷だった。

 それなのに、彼はまだ自分を取り繕おうとしている。

 弱さを見せることを拒み、英雄の殻に閉じこもろうとしている。


「副官殿、上の調律室へ彼を運んでください」


 アイラは涙を袖で拭い、顔を上げて強い光を宿した瞳で副官を見据えた。


「この傷は、単なる止血では塞がりません。魔石の毒素が筋肉に浸透しています。中和用の高純度銀精液と、魔力抽出針が必要です。工房の二階でなければ、器具が揃いません」


「わ、分かった。手を貸せ」


 副官と騎士がユージーンの体を再び抱え上げる。

 痛みに耐えかねてユージーンが喉の奥で押し殺した呻き声を上げたとき、アイラの胸元の石が、彼の痛みをそのまま引き受けるかのように激しく熱を放った。


◆ ◆ ◆


 調律室の長い作業机の上に、清潔な麻布が何重にも敷き詰められた。

 横たえられたユージーンの浅く荒い息遣いが、静まり返った部屋の中に低く木霊している。

 副官はアイラの指示に従って一階から中和薬を運び込むと、他者が近づかぬよう階下で見張りに就いた。

 部屋に残されたのは、傷口を洗うための薬草湯を沸かす火の爆ぜる気配と、二人だけの濃密な沈黙だった。

 アイラは袖をまくり、熱湯に浸した布を絞ると、ユージーンの左腕の傷口へ慎重にあてがった。

 煮沸した薬草湯の苦い蒸気と、傷口の腐食臭、そして彼が流す生々しい汗の鉄分を含んだ匂いが混ざり合う。

 肉が焼けるような刺激に、ユージーンの全身が強張り、机の木部に爪を食い込ませる右手の指先が白く変色した。


「痛みますか……。すぐ、毒素を抜きますから」


「……この程度の痛み、どうということはない」


 ユージーンは天井を睨みつけたまま、奥歯を噛みしめて答えた。

 だが、失血による冷汗が額から噴き出し、その強がりの脆さを証明していた。

 アイラは薬湯で傷口の周囲の泥と血を丁寧に拭い去っていく。

 布が赤黒く染まるたびに、胸の奥が千々に引き裂かれるような錯覚に襲われた。

 なぜ、この人はここまでして戦わなければならないのか。

 侯爵家の跡取りという重責、周囲からの過剰な期待、そして名門の姫君との望まぬ縁談の噂。

 彼が背負わされているものの重さに、アイラは初めて気づかされていた。

 自分は彼を遠い世界の人間と決めつけ、その眩しさから目を逸らすことばかりを考えていた。

 彼の背負う孤独の深さなど、何一つ知ろうともせずに。


「……なぜ、ここへ来たのですか」


 調律針の先を消毒液に浸しながら、アイラは震える声で尋ねた。


「本部の医務室の方が、高名な軍医も揃っています。公立の工房などに運び込むよりも、ずっと安全に手当てが受けられたはずです」


 ユージーンはすぐには答えなかった。

 荒い呼吸を数度繰り返し、それから首をわずかに横へ傾けて、アイラの手元を見つめた。

 その瞳の奥には、濁りのない光が、微かに揺らめいていた。


「……あの時、石が光った」


「え……?」


「坑道で爪を受けた瞬間、胸の奥で、お前の石が狂ったように叫ぶのが分かった」


 ユージーンの声が、かすれた。

 彼は血に汚れた右手をゆっくりと持ち上げ、自らの胸元へと当てた。

 破れた隊服の襟の間から、銀色の細工が施された青い石が、力なく覗いていた。


「意識が飛びそうになる中で、あの光だけが見えた。……気づいた時には、馬の首をこの工房へ向けていた」


 アイラは息を詰めた。

 彼もまた、あの夜会以来、石を通して自分の波長を受け取り続けていたのだ。

 互いに断ち切ろうともがきながら、その実、誰よりも強く相手の存在を求め合っていた。

 その歪で強固な繋がりが、彼をこの場所へと連れ戻したのだ。

 アイラは調律針を握り直した。

 もう、迷っている時間はない。

 この冷え切った体を温め、傷口に巣食う毒をすべて吸い出すこと。

 それが、いま自分にできる唯一の償いだった。

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