第6話「不協和音のさざめき」
数日後の午後、公立工房の一階荷解き場は、いつもとは異なるざわめきに包まれていた。
王都から到着した定期便の馬車を取り囲み、数名の荷運び人や下請けの研磨職人たちが車座になって話し込んでいる。
二階の調律室へ続く階段の踊り場で、アイラは抱えていた資材台帳を胸に抱き直した。
階下から吹き上がってくる風に乗って、男たちの浮き足立った声が断片的に耳へ届く。
「……やはり、本当だったんだな。夜会の翌朝、騎士団の本部に公爵家の使者が入るのを見た奴がいるそうだ」
「ああ、街の広報板にも近いうちに正式な布告が出るって話だ。ヴァレンティン公爵家のアリアーヌ様と、クロムウェル侯爵家のユージーン小隊長殿。これ以上の絵になる組み合わせは国中探してもないだろうよ」
「討伐の功績に加えて、大貴族同士の婚姻だ。騎士団長への昇進も、そう遠い話じゃないらしいな」
台帳を抱えるアイラの指先に、じわりと力が入った。
紙の束が軋む感触が、腕を通して伝わってくる。
街のどこへ行っても、その噂ばかりだった。
定食屋でも、魔石の買い付けに訪れた市場でも、人々は若き英雄の慶事を我がことのように語り合っていた。
誰もが納得し、誰もが称賛する、正しく美しい未来。
アイラは足早に階段を下り、荷解き場を抜けようとした。
うつむき加減に歩く彼女の姿に気づいた職人の一人が、悪気のない笑顔で声をかけてくる。
「よう、アイラ嬢ちゃん。お前のところにも話は届いてるだろ。防衛騎士団に納品してる工房としても鼻が高いんじゃないか。おめでたい話だよな」
「……ええ。本当に、素晴らしい慶事だと思います」
アイラは立ち止まり、顔を上げて丁寧に笑ってみせた。
口角を引き上げ、相手の目を見て、平然とうなずく。
その所作に、微塵の乱れもなかったはずだった。
だが、職人はアイラの顔を不思議そうに見つめ、それ以上言葉を継ぐのをためらうように頭を掻いた。
「おい、くだらない油を売ってないで、さっさと荷を下ろせ」
背後から現れたレオンが、職人の肩を小突き、強引に会話を打ち切った。
レオンは手にした検品用の木槌を腰のベルトに挟み、アイラの横に立つと、彼女が抱える台帳の半分を無言で引き取った。
「二階の第二保管室だろ。運んでやるから、さっさと行くぞ」
「……ありがとうございます、先輩」
アイラは小さく頭を下げ、レオンの後を追って階段を上り直した。
◆ ◆ ◆
薄暗い保管室に入り、重い鉄扉が閉まると、階下のざわめきはようやく遠い鳴動へと変わった。
レオンは台帳を木製の棚へ放り込むように置き、埃っぽい室内の窓を開け放った。
午後の湿った風が吹き込み、二人の間を通り抜けていく。
「……無理して笑うなよ。見てて痛々しいんだよ、お前のその作り笑いは」
窓枠に手をついたまま、レオンが背中越しに言った。
彼の声音には、いつもの軽妙さは欠片も残されていなかった。
「笑ってなどいません。普通に応対しただけです」
「それが嘘だって言ってんだ。街中があの噂で持ちきりになってから、お前、誰とも目を合わせないようにしてるだろ」
「関係ありません。あの方のご婚約は、私のような一介の調律師にとって、祝意を示すべき公式の出来事に過ぎませんから」
「あの方、ね」
レオンが振り返り、アイラを真っ直ぐに見据えた。
その視線には、苛立ちと、どうしようもない諦めが混ざり合っていた。
「お前がそうやって自分に言い聞かせて、平気な顔を作ろうとしてるのは勝手だ。けどな、アイラ。心が追いついてないのに形だけ繕ったって、いつか手元が狂って怪我をするのはお前自身だぞ」
アイラは何も言い返せず、ただ台帳を棚の定位置へと並べる作業を続けた。
レオンの言葉が正しいことなど、自分が一番よく知っていた。
胸の奥に冷たい鉛を飲み込んだような感覚が、この数日間ずっと消えない。
食事の味もせず、夜になれば浅い眠りの中で冷たい汗をかいて目を覚ます。
それでも、平気な顔をし続ける以外に、自分を守る術がなかった。
傷ついていないふりをしなければ、これまでの十年間、彼を想い続けてきた自分自身の存在そのものが、惨めな道化に思えて耐えられなかった。
「……先輩のお気遣いには、感謝しています。でも、私は大丈夫です」
最後に残った一冊を棚に押し込み、アイラは一歩後ずさってレオンに頭を下げた。
「今日の分の検品記録をまとめなければなりませんので、作業場へ戻ります」
レオンはそれ以上何も言わず、ただ深くため息をついて、窓の外へと視線を戻した。
◆ ◆ ◆
夕暮れが迫り、作業場に再び一人きりの時間が訪れた。
アイラは自分の机の前に立ち、椅子の背もたれに手を置いていた。
部屋の中は異様なほど静まり返っていた。
だが、その静寂を切り裂くように、机の右下から微かな気配が立ち上っている。
気のせいではない。
アイラは息を詰め、右膝を床について作業机の最も深い引き出しを見つめた。
真鍮の鍵穴の隙間から、青い光の糸が細く漏れ出していた。
明滅している。
厚い木板とビロードの布を通り抜け、床の上に青い斑点を投げかけるほどに強い光だった。
その点滅の周期は、恐ろしいほど不規則だった。
早くなったり、途切れそうに弱くなったり、あるいは刺すような鋭さで輝いたり。
まるで、激しい苦痛に身悶えする生き物の脈拍のようだった。
「……どうして」
アイラは震える指先をエプロンのポケットに入れ、真鍮の鍵を取り出した。
鍵穴に差し込み、回す。
重い手応えと共に鍵が外れ、引き出しをゆっくりと手前へ引いた。
底に押し込まれていた黒いビロードの包みが、内側から激しく発光していた。
布の繊維を透かして広がる青い燐光が、アイラの顔を青白く照らし出す。
包みを開くと、銀枠の魔石が露わになった。
石の表面は、手で触れることをためらうほどに激しい熱を帯びていた。
内部の光脈が激しく乱れ、幾筋もの光の筋が衝突し、火花を散らすように炸裂している。
持ち主の感情の乱れを映し出す、対の魔石。
もし街の噂通り、彼が望む未来を手に入れ、名門の令嬢との婚約を穏やかに受け入れているのだとしたら。
なぜ、この石はこれほどまでに狂おしい不協和音を奏でているのか。
慶事に沸く者の波長ではない。
幸福や満足感とは対極にある、引き裂かれるような葛藤、絶望、そして底知れない怒り。
それらの激しい感情が、海鳴りのような圧力となって石の奥から溢れ出していた。
「ユージーン……?」
思わずこぼれ落ちた名前が、冷たい作業場に小さく反響した。
アイラは恐る恐る、右手の指先を激しく脈打つ石の表面へと伸ばした。
指の腹が冷たいはずの鉱物に触れた瞬間、痛打のような衝撃が、皮膚を通してアイラの意識へと流れ込んできた。
息が詰まる。
肺の空気がすべて吸い出されたかのような、強烈な圧迫感。
指先から伝わってきたのは、凍てつくような冷気と、それを焼き尽くそうとする狂気じみた焦燥の波だった。
彼が、苦しんでいる。
誰の目にも完璧に見えるあの青年が、どこかで、自分には窺い知れない闇の中で息を詰まらせている。
その生々しい確信が、アイラの胸を強く貫いた。
断ち切ろうとしたはずの絆が、石を通して痛いほどの手応えを返してくる。
アイラは石を握りしめたまま、うつむいた。
青い光が指の隙間から溢れ出し、薄暗い作業場の床を、冷たく激しい色で染め上げていた。




