第3話「天鵞絨《ビロード》の夜ににじむ」
迎賓館の大広間を満たす空気は、高価な竜涎香と白檀の重苦しい芳香、そして甘い葡萄酒の匂いが幾重にも重なり合っていた。
天井から吊り下げられた巨大な発光魔石のシャンデリアが、幾千もの切子硝子を通して冷たい純白の光を床一面に降らせている。
磨き上げられた大理石の床には、集った貴族たちの華美な衣装が鏡のように映り込んでいた。
金の刺繍を施した豪勢な礼服や、幾層ものレースを重ねた絹のドレスが擦れ合うたび、微かな衣擦れの音が波のように広がる。
アイラは壁際に並ぶ大理石の太い円柱の影に、背中を押し付けるようにして立っていた。
手元の小さな銀の杯には、口をつけていない林檎の果汁が注がれている。
冷え切った銀の表面に細かい水滴がつき、それが指先を伝って滑り落ち、皮膚の体温を容赦なく奪っていった。
着慣れない濃紺のドレスは、数年前に母が仕立て直してくれた古いものだった。
袖口の縁には目立たない毛羽立ちがあり、流行遅れの控えめな襟ぐりが、周囲のきらびやかな令嬢たちの中でひどく浮いて見えた。
本来であれば、子爵家の末娘であり工房の一調律師に過ぎない自分が、このような場に招かれる道理はない。
遠征部隊の魔石器具を迅速に納品した公立工房への、儀礼的な労いの招待状。
身分違いの華やかな場に尻込みする工房長から、貴族の端くれであるという理由だけで代理出席を頼み込まれたことを、アイラは今になって深く悔やんでいた。
「あら、公立工房の方? ずいぶんと煤けた装いでいらっしゃること」
円柱の脇を通り過ぎようとした高位貴族の婦人が、扇で口元を隠しながら嘲るような視線を投げかけてきた。
取り巻きの若い令嬢たちが、忍び笑いを漏らす。
アイラは背筋をわずかに正し、静かに会釈を返した。
その視線は、婦人の胸元で派手に輝く一等魔石の首飾りへと注がれている。
「奥様、そのペンダント、今すぐ給仕に預けて氷水で冷やされた方がよろしいかと存じます」
「なんですって?」
「シャンデリアの熱線光を吸いすぎて、内部の蓄魔核が熱膨張を起こしています。励起状態の限界値を超えていますわ。あと三分あの発光器の直下に立ち続ければ、共振破砕を起こして、その美しいデコルテに青い火花が突き刺さることになりますけれど」
アイラが平然とした声で淡々と指摘した瞬間、首飾りの奥でピシリと微小な亀裂の音が響いた。
婦人の顔から血の気が失せ、取り巻きの令嬢たちが悲鳴を噛み殺して後退する。
アイラは小さく一礼し、再び円柱の影へと身を引いた。
胸のすく思いなど微塵も湧かなかった。
どれほど鉱石の知識で圧倒したところで、自分がこの華麗な世界の異物であるという事実は何一つ変わらない。
(……早く、終わってほしい)
誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやき、アイラは深く息を吐き出した。
胸元の薄い襟の奥へ押し込んだ銀のペンダントが、皮膚の表面をちりちりと刺激している。
服の下に隠していても、石が帯びる熱は消えない。
周囲の話し声が、ざわめきとなって耳朶を打つ。
北方貴族の領地問題、南方の通商路の利益、あるいは今宵の主役である若き英雄の噂話。
あちらこちらで交わされる会話の断片が、鋭利な刃物のようにアイラの胸をかすめていく。
誰もが、二十歳にして防衛騎士団のエリート部隊を率いる侯爵子息の名を口にしていた。
西方の討伐戦で挙げた輝かしい戦果と、それによって今宵授与される新たな勲章。
彼が名実ともに王国の次代を担う中核となったことを、広間の全員が祝福し、あるいはその権勢に近づこうと目を光らせている。
アイラは爪の先を手のひらに食い込ませ、視線を足元の大理石へと落とし続けた。
見たくない、という思いと、一目だけでも姿を確かめたいという浅ましい願望が、胸の奥でせめぎ合っている。
幼い頃、泥濘に足を取られて泣いていた自分を背負ってくれた少年の面影は、もうこの華麗な空間のどこにも存在しない。
彼は遠い高みへと駆け上がってしまった。
その事実を、この場に漂う冷たい光と豪勢な装飾が、余計なほど残酷に証明していた。
「見なさいな、今宵の隊長殿の凛々しいお姿を」
円柱のすぐ向こう側で、扇を持った若い令嬢たちのささやき声が響いた。
アイラは思わず身を縮め、息を殺す。
「侯爵家の威光にふさわしい、完璧な佇まいですわ。あのような殿方に見染められる方が、羨ましくてなりません」
「けれど、もうお相手は内定しているようなものでしょう。ほら、ヴァレンティン公爵家のアリアーヌ様が、ずっとお隣にいらっしゃるわ」
「ええ、実にお似合いですこと。名門同士の結びつきとしても、これ以上の組み合わせはございませんものね」
喉の奥がきゅうと狭まり、呼吸のたびに胸骨の裏側がきしんだ。
アイラは耐えきれずに、大理石の柱の陰からゆっくりと顔を上げた。
広間の中央、一段高くなった壇上の手前に、人だかりの中心となっている一画があった。
人々の波の隙間から、見慣れた、けれど今は果てしなく遠い青年の姿が切り取られる。
ユージーンだった。
今宵の彼は、銀のモールを肩に飾った純白の儀礼服を身にまとっていた。
胸元には、先ほど授与されたばかりの金と青の勲章が誇らしげに輝いている。
背筋を真っ直ぐに伸ばした立ち姿は、彫像のように美しく、一切の隙が存在しない。
彼が軽く顎を引いて周囲の祝辞に応じるたび、集った貴族たちが満足そうにうなずき合っていた。
そして、そのすぐ隣。
ユージーンの差し出した右腕に、滑らかな白い指先を絡めている女性がいた。
名門ヴァレンティン公爵家の令嬢、アリアーヌだった。
波打つ蜂蜜色の髪には惜しげもなく真珠が編み込まれ、ドレスの裾に縫い付けられた無数の粒真珠が床を擦るたび、微かな絹擦れの音が広がる。
彼女が唇に柔らかな笑みを浮かべ、ユージーンの耳元へ何かを囁きかけた。
何を囁きかけているのかまでは、遠く離れた場所からは窺い知ることもできない。
ユージーンはわずかに視線を下げ、冷淡な仮面を崩さないまま、けれど拒絶をこの場で露わにすることなく、氷のように硬い顎をわずかに引いてみせた。
親しげに語りかける令嬢の姿に、アイラの胸の奥は急速に冷え切っていった。
だが、遠くから見つめるアイラの瞳には、それが親密な囁きを穏やかに受け入れたようにしか映らなかった。
その瞬間、ユージーンの藍色の双眸が、令嬢から外れ、広間の柱の影にいるアイラのドレスの裾を射抜くように捉えた。
「……っ」
アイラの胸の奥で、何かが音を立てて砕け散った。
指先から急速に温度が失われていく。
高位貴族としての血筋、非の打ち所のない美貌、そして手にした強大な力。
ユージーンの隣に立つべき人間は、最初からあのような女性でなければならなかったのだ。
油と金属の匂いにまみれ、指先に硬いたこを作りながら原石を削る下位貴族の娘など、彼の視界に入ることすら許されない。
昨夜の彼の厳しい眼差しや、今朝の工房での凍りついた声が、頭の中で乱雑に再生される。
あれは単に、幼馴染という過去の残滓に対する、彼なりの苛立ちに過ぎなかったのだ。
自分の足元に付きまとう泥を払うように、彼は自分を突き放したかったに違いない。
そう思い込もうとすればするほど、胸元のペンダントが激しく熱を帯びた。
薄い布地を押し上げ、青い光が不規則に点滅を繰り返す。
その光はまるで、アイラの胸の中に渦巻く醜い叫びを、そのまま映し出しているかのようだった。
皮膚が焼けるような錯覚に襲われ、アイラは思わず胸元を手で押さえた。
これ以上、この場所にいてはいけない。
呼吸が浅くなり、視界の端が白くかすみ始めていた。
誰にも気づかれないうちに、この息苦しい広間から逃げ出さなければ、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
アイラは手元の杯を給仕の盆へとそっと戻し、壁伝いに後ずさった。
豪勢なざわめきと、響き渡る弦楽器の調べを背中に受けながら、会場の隅にあるテラスへと続く硝子扉を目指して、足早に身を引いた。
◆ ◆ ◆
硝子扉を押し開けた瞬間、冷え切った夜風が頬を強く打った。
迎賓館のざわめきが、重い扉の向こう側へと遮断される。
テラスの先には、白大理石の欄干と、その向こうに広がる広大な後庭が闇の中に沈んでいた。
遠く眼下には、星都市アルケナの街灯が淡い青と白の光跡となって、幾筋もの川のように流れている。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、喉の奥の熱さがわずかに引いていくのがわかった。
アイラは手すりに両手を預け、うつむいた。
石の冷たさが手のひらを通して骨に染み込んでくる。
(……ばかみたい)
自嘲の言葉が、乾いた唇から漏れ出た。
最初から分かっていたことだった。
彼と自分の間には、埋めようのない深い溝があることなど、十歳を過ぎた頃にはとうに理解していたはずだった。
それなのに、なぜ今になってこんなにも心が軋むのか。
彼が他の女性の隣に立つ姿を見て、なぜこれほどまでに息ができなくなるのか。
胸元からペンダントを引き抜いた。
銀の細工の施された枠の中で、青い石が狂ったような間隔で明滅を繰り返している。
かつて彼が、街外れの危険な鉱山跡で見つけてきたと言って笑いながら渡してくれた、対の魔石。
世界に二つとない波長を持つその石を、アイラは何年もかけて調律し、自らの魔力と馴染ませてきた。
それは幼い日々の思い出であり、同時にアイラにとっての唯一の誇りでもあった。
だが今、この石が放つ光は、ひどく濁って乱れていた。
持ち主の心の乱れを反映する魔石は、アイラの絶望を吸い上げて、悲痛な瞬きを続けている。
「……もう、終わりにしなきゃいけないのに」
指先で冷たい銀枠をなぞる。
このペンダントを外してしまえば、彼との見えない繋がりを断ち切ることができるのだろうか。
そうすれば、工房で彼と顔を合わせても、胸を痛めずに澄ました顔で頭を下げられるようになるのだろうか。
だが、首の後ろに手を回そうとしたアイラの指先は、凍りついたように動かなかった。
捨てられない。
手放せない。
どれほど惨めな思いをしようとも、彼からもらったこの小さな光だけが、暗闇の中で自分を支える全てだったからだ。
アイラはペンダントを握りしめ、冷たい夜風の中に一人、立ち尽くしていた。




