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下位貴族の調律師が身分差を理由に逃げたら、次期侯爵の英雄が血まみれで追いかけてきました  作者: 黒崎 隼人


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第2話「揺らぐ青の残像」

 朝の澄んだ光が工房の格子窓を通り抜け、埃の舞う作業場を白く照らし出していた。

 机の上に並べられた数十個の魔石は、市内の街灯に組み込まれる標準規格の品だ。

 夜間に蓄えた光を一定の速度で放出し続けるよう、内部の魔力圧を均一に揃える作業が続いていた。

 ピンセットで小さな留め金を外し、調律針を滑り込ませる。

 昨夜の冷え切った空気の記憶を追い出すように、アイラは指先の感覚だけに集中していた。

 だが、針先から返ってくる手応えは、どこか鈍く重い。

 胸の奥に澱のように沈んだ感情が、魔力の流れを濁らせているのを自覚せざるを得なかった。


「アイラ、そんなに眉間にしわを寄せてると、せっかくの綺麗な顔が台無しだぞ」


 軽やかな声と共に、作業机の向かい側に木製の小箱が置かれた。

 顔を上げると、同じ工房の制服を着た青年が、白い歯を見せて笑いかけていた。

 三歳年上の先輩調律師、レオンだった。

 癖のある茶髪を適当に後ろで束ね、腕まくりをした前腕には古い研磨傷が幾筋も走っている。

 下町の細工師の家系出身で、貴族の肩書など持たない彼は、工房内で最も気さくにアイラへ声をかけてくれる同僚だった。


「レオン先輩……おはようございます。別に、しわなんて寄せていません」


「寄せてる寄せてる。ほら、ここ。まるで難しい魔導論文でも解いてる学者先生みたいだ」


 レオンは自分の額を指先で叩いてみせ、それから手元の小箱の蓋を開けた。

 中には、彼が朝一番で調整を終えた魔石が綺麗に並んでいる。


「外回りの点検班から、追加で三十個届いたんだ。お前が手際よく片付けてくれるから助かるよ。貴族の出だって聞いたときはどんなお嬢様が来るかと思ったけど、うちの誰よりも手が早くて職人気質なんだから恐れ入るね」


「褒めても何も出ませんよ。私は、これしか取り柄がありませんから」


「その取り柄が飛び抜けてるって言ってんの。お前が調律した石は、波長のブレがほとんど出ない。街灯の交換周期が延びて、資材課の連中が涙を流して感謝してたぞ」


 レオンは作業机の端に腰をかけ、持参した水筒から湯気の立つハーブ茶を二つの陶器の杯に注いだ。

 乾燥させた柑橘の甘い香りが、作業場特有の油臭さを柔らかく包み込んでいく。

 差し出された温かい杯を受け取ると、冷えていた指先がじわりと温まった。


「ありがとうございます。いただきます」


「おう。しっかり息抜きしろよ。朝から根を詰めすぎると、昼過ぎには目がかすんで石の核を見失うからな」


 レオンは自分のお茶を一気に口へ流し込み、息を吐いた。

 彼の飾らない気安さは、息苦しい身分の上下からアイラを解放してくれる救いだった。

 子爵家の娘としてではなく、ただの一人の調律師として扱ってくれる場所。

 ここにある時間だけが、痛む心を麻痺させてくれた。


「あ、そうだ。アイラ、この前の調整器具、少し刃先を研ぎ直しておいたぞ。お前、刃の角度が寝すぎてる癖があるから、少し起こし気味にしておいた。それに、この砥石の油、ずいぶん上等な白鯨の精製油だろ。どこで手に入れたんだ? 刃の滑りがまるで違うぞ」


 アイラは胸元がきゅっと締まるのを覚えた。

 その油は、半年前に防衛騎士団から工房へ払い下げられた備品の中に、なぜか私物品として紛れ込んでいたものだった。

 小瓶の底には、見覚えのある簡潔な筆跡で、アイラの作業机の番号だけが記されていたのだ。


「……いただきものです」


「ふうん、気前のいい知り合いがいるんだな。使ってみてくれよ。その代わり、今度美味い焼き菓子屋の場所を教えろよ。妹の誕生日に何か買ってやりたいんだが、俺はそういう洒落た店に疎くてさ」


「東通りの角にある、小さな青い看板のお店です。無花果と胡桃のタルトが、とても香ばしくて美味しいですから」


 幼い頃、怪我をして泣きじゃくるアイラに、ユージーンがなけなしの小遣いをはたいて買い与えてくれた、あの店のタルトだった。

 アイラがふっと目元を緩め、小さく微笑んだ。

 張り詰めていた神経が解け、微かな笑みが唇からこぼれ落ちる。

 レオンもそれを見て、満足そうに鼻の下を指で擦った。


「決まりだな。じゃあ、今日のノルマをさっさと終わらせて――」


 レオンの言葉が、唐突に途切れた。

 廊下の奥から響いてきたのは、複数の人間が靴底を揃えて歩く、硬く重い足音だった。

 一歩ごとの間隔が完全に一致した軍靴の響き。

 金属の留め具が触れ合う冷たい音が、開け放たれた工房の入り口へ向かって一直線に迫ってくる。

 アイラの耳の奥で、吸い込んだ空気が凍りついた。

 胸元の薄い布の下で、銀枠の魔石が鋭く脈打つ。

 皮膚を直に炙られるような温度だった。


「……何だ。朝からずいぶん物々しいな」


 レオンが机から腰を浮かせ、眉をひそめて入り口を振り返った。

 足音が止まる。

 入り口の扉を押し広げて現れたのは、紺色の隊服に身を包んだ防衛騎士団の巡回部隊だった。

 先頭に立っていたのは、昨日と同じ威容を誇る青年だった。

 だが、まとっている気配は昨夜の比ではない。

 軍帽の庇の奥から覗く藍色の瞳は、真冬の氷湖のように凍てつき、光を一切反射していなかった。

 ユージーンの視線が、作業場の中を鋭く薙ぎ払う。

 そして、アイラとレオンの姿を捉えた瞬間、その瞳の奥にどす黒い影が落ちた。


「資材課の依頼に基づき、防衛設備用魔石の定期点検を行う。責任者は誰だ」


 ユージーンの声は低く、作業場の空気を瞬時に引き下げた。

 従えている二名の部下は、抜剣こそしないものの、張り詰めた姿勢のまま入り口を塞ぐように控えている。

 工房内の穏やかな空気は、一瞬にして吹き飛んだ。

 アイラの口元から笑みが消え失せ、陶器の杯を持つ指先が硬直する。

 その急激な態度の変化を、ユージーンの冷徹な視線が見逃すはずはなかった。

 彼の手袋をはめた指先が、わずかに痙攣するように動いた。


「……責任者なら、俺ですが」


 レオンが一歩前に出た。

 騎士たちの放つ威圧感に気圧されることなく、彼はアイラを背後に庇うような位置に立つ。


「騎士団の資材点検は、通常は月末のはずですが。今月はまだ十日以上残っていますよ、小隊長殿」


 レオンの言葉には、不必要な畏れがなかった。

 職人としての矜持と、職場の平穏を乱されたことに対する微かな反発がにじんでいる。

 ユージーンの視線が、レオンへと落ちた。

 見下ろすようなその眼差しには、明白な敵意と、それを無理矢理押し殺した冷徹な光が宿っていた。

 二人の青年の間に、目に見えない火花が散る。


「遠征からの帰還に伴い、非常時の備蓄分をすべて再検査することになった。昨夜の決定だ」


 ユージーンは視線をレオンから外し、背後に立つアイラへと向けた。

 その瞳の暗さに、アイラは息を詰める。

 彼が見つめているのは、アイラの顔だけではない。

 机の上に並べられた二つの杯。

 まだ湯気を立てているハーブ茶の香りと、二人が先ほどまで共有していた親密な空気の残滓。

 机の端に置かれた調整器具の、磨き直されたばかりの刃先。

 それらをひとつ残らず拾い集めるように、ユージーンの視線が動いていた。


「……公立工房の職員は、勤務時間中に随分と長閑なお茶会を楽しんでいるようだな」


 吐き出された声の棘に、アイラの胸骨がきしりと鳴った。

 侮辱されたのは自分だけではない。

 善意でお茶を淹れてくれたレオンまでもが、怠惰だと咎められている。

 アイラは机の上の杯を置き、レオンの横へ踏み出そうとした。


「隊長殿、それは私の不手際で――」


「アイラ、お前が弁明する必要はない」


 レオンが腕をわずかに伸ばし、アイラを制した。

 その手の動きを見た瞬間、ユージーンの眉が跳ね上がった。

 顎の筋肉が固く引き結ばれ、腰の剣帯がきしむ音が静寂の中に響く。

 彼がまとう空気が、あまりの冷たさに肌を刺すような痛みを帯びていく。

 ユージーンは部下たちを入り口に残したまま、ゆっくりと大股で足を踏み出した。

 床板を踏みしめる重い音が、アイラの鼓動と重なる。

 彼はレオンの肩先をかすめるように通り過ぎ、作業机の前に立つアイラの正面で足を止めた。

 至近距離に迫る彼の影が、アイラの視界を塗りつぶす。

 高い体躯から見下ろす威圧感は、呼吸をすることすら困難にさせた。


「……昨夜は、あれほど頑なに職務上の礼を口にしていたはずだが」


 ユージーンの声は、アイラだけに届くよう低く落とされていた。

 その声音には、押し殺しきれない震えが含まれている。

 怒りなのか、それとも別の激しい感情なのか、アイラには判別がつかなかった。

 ただ、彼の瞳の奥で青い炎が狂ったように揺らめいているのだけが見えた。


「同僚の前では、そのような柔らかい顔で笑うのか。俺には一度も見せたことのない顔で」


「っ……」


 言葉が喉に張り付いて出てこない。

 非難されていることの不条理さに、アイラの胸の奥で反発の火が灯りかけた。

 なぜ、そんなことを言われなければならないのか。

 他人行儀に接することを強いたのは、彼自身の眩しすぎる立場と、自分との間にある身分の差ではないか。

 彼を取り巻く高貴な人々の中に、自分が混ざれるはずもないから身を引いているのに。

 アイラは唇を噛み、下から彼を見つめ返した。


「……職場の同僚と円滑に業務を進めるための配慮です。隊長殿に咎められる筋合いはございません」


 強張った声でそう言い返した瞬間、ユージーンの喉元が微かに動いた。

 彼の胸元で、隊服の布を押し上げるようにして強い光が明滅した。

 アイラのペンダントと完全に一致した周期で、狂ったように熱を放っている。

 痛いほどの共鳴。

 ユージーンの右手が、手袋を軋ませながら持ち上がり、机の端に置かれた調律針へと触れかけた。

 だが、彼はその手を宙で止めた。

 指先がわずかに震えている。


「小隊長殿」


 レオンの硬い声が、二人の間に割り込んだ。


「資材の点検をなさるなら、倉庫へご案内します。ここは作業場ですので、これ以上の長居は業務の妨げになります」


 ユージーンの視線が、ゆっくりとアイラから引き剥がされた。

 彼はレオンを一瞥すらすることなく、ただ低く、氷のような声音を落とした。


「……資材課へ連絡しろ。本日の点検は中止とする。後日、正式な監査官を同行させて出直す」


「は?」


 レオンが不審そうに眉を寄せたが、ユージーンはすでに背を向けていた。

 藍色の外套が翻り、鋭い風を巻き起こす。

 入り口で控えていた部下たちが驚きを隠せない様子で直立し、背を向けて立ち去る隊長の後を追った。

 足音が遠ざかり、階段を下りていく響きが消えるまで、作業場には誰一人として声を発する者はいなかった。

 アイラは机に手をつき、荒くなった呼吸を必死で整えようとした。

 服の下のペンダントは、まだ激しく明滅を繰り返している。

 肌に触れる金属の熱さが、胸の奥の傷口を焼き焦がすように疼き続けていた。

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