第1話「硝子越しの凱旋」
細長い作業机の上に置かれた硝子板が、夕暮れの淡い朱色を斜めに切り取っていた。
アイラは右手に持った真鍮の調律針をわずかに傾け、台座に固定された青い原石の表面へ先端を添える。
息を細く吐き出し、指先の皮膚を通して鉱石の核が震える微細な周期を探った。
原石の内部には、幾何学的な不整脈が存在していた。
結晶格子が微かに歪み、魔力の粒子が微細な澱みとなって角柱の縁に引っかかっている。
普通の手仕事職人なら、外殻を削ってごまかすところだった。
だがアイラは、真鍮の針先を通して自らの魔力を分子の隙間へ滑り込ませる。
濁りのある波長を削ぎ落とすように、手首を砂粒の影すら崩さぬほどの極微な角度で旋回させた。
針先から伝わる摩擦熱と、鉱物の冷えた感触が、人差し指の硬いたこを通して骨へと染み渡っていく。
公立工房の片隅に漂う研磨油と金属粉の匂いが、肺の奥をわずかに刺激する。
手元で淡い青の燐光がふわりと広がり、乱れていた波形が一本の滑らかな曲線へと収束する。
針を離すと、台座の石は湖の底のように澄み切った光を放ち、静かに脈打ち始めた。
「よし……これで、都市の灯りを夜明けまで支えられる」
小さく息を漏らし、アイラは固まっていた肩の力を抜いた。
椅子の背もたれに体を預けると、木製の骨組みがきしんだ音を立てる。
窓の外から、遠雷のような地響きが低く這うように届いていた。
石造りの床をかすかに震わせるその響きは、空の機嫌によるものではない。
アルケナの中央大通りを埋め尽くす群衆の、狂乱に近い歓呼の声だった。
西方国境の森林地帯に発生した凶悪な魔獣の群れを討伐し、騎士団が凱旋したのだ。
三週間前、出立を見送る市民の列に混ざることもできず、アイラはこの作業机にかじりついていた。
工房の窓枠に額を寄せ、通りを見下ろすことすら選べなかった。
薄い布越しに、鎖骨の間に潜ませた小さなペンダントへ指が触れる。
銀の枠に嵌め込まれた親指ほどの魔石が、肌の上で微熱を帯びていた。
不揃いな鼓動のように、明滅の周期がわずかに乱れている。
自分の波長に合わせて研ぎ澄ませたはずの石が、勝手に熱を吸い上げていた。
(……無事に、戻ってきたんだ)
胸の奥でつぶやいた言葉は、喉の奥を針で刺すような痛みを伴った。
その事実を純粋に喜びたい自分と、顔を合わせるのが恐ろしい自分が半分ずつ存在する。
防衛騎士団のエリート小隊長。
侯爵家の正統な後継者であり、十代から数々の武勲を重ねる天性の剣士。
それが、いま街中から喝采を浴びている青年の肩書だった。
そしてアイラは、下位貴族である子爵家の末娘に過ぎない。
領地も持たず、家名を支える財力もなく、ただ魔石の光を整える職能だけを買われて工房に勤める身だ。
かつて、泥にまみれながら原石を掘り出していた鉱山跡の記憶は、遠い幻のようにかすんでいた。
通りから湧き上がる歓喜の波が、二階の作業場まで石壁を伝って響いてくる。
アイラはペンダントから指を離し、再び作業台の上の器具へと視線を落とした。
余計な思考を遮断するように、布切れを手に取って真鍮の針を丁寧に拭い始める。
いまの自分にあるのは、目の前にある石の光を濁らせないことだけだった。
◆ ◆ ◆
日が完全に落ち、室内の光源が作業机の魔石灯だけになった頃、工房の重い扉が軋んだ。
階下の職人たちはすでに家路につき、館内は静まり返っていたはずだった。
階段を上がってくる足音は、革底が石を踏む規則正しいリズムを刻んでいる。
金属具が擦れ合う微かな硬質な響きが、夜の静寂を切り裂くように近づいてきた。
アイラの手が止まる。
拭き終えたばかりの調律針が、指先から滑り落ちそうになった。
胸元のペンダントが、皮膚を焦がすほど急激に熱を帯びる。
明滅の間隔が異様なほど早くなり、薄いブラウス越しに淡い青の光芒が漏れ出していた。
扉の隙間から、夜気を含んだ冷たい風が作業場へと流れ込む。
影が伸び、入り口の木枠に長身の輪郭が浮かび上がった。
「……まだ、こんな時間まで油の匂いを嗅いでいるのか」
低く、どこか耳の奥を撫でるような声だった。
声変わりの時期特有のかすれはとうに消え失せ、いまは張りのある落ち着いた響きを湛えている。
アイラは息を詰め、作業机の端を指の腹で強く押さえつけた。
立ち現れた青年は、外套の留め具に純白の羽をあしらった防衛騎士団の正装をまとっていた。
群青色の隊服には一片の泥も残されておらず、肩の銀モールがランプの光を受けて鋭く輝いている。
だがその身からは、夜気だけでなく、長距離を駆けてきた軍馬の乾いた汗の匂いと、防具の継ぎ目に染み込んだ遠い針葉樹林の湿った腐葉土の匂いが、密閉された工房の空気を押し流すように漂っていた。
背丈は以前よりもさらに伸び、肩幅の広さが軍人としての過酷な鍛錬を物語っていた。
整いすぎた目鼻立ちには、遠征の疲労の色など微塵も見当たらない。
ただ、宵闇を宿したような深い藍色の瞳だけが、冷ややかにアイラを捉えていた。
「……ユージーン隊長殿」
アイラは椅子の横に立ち、足元を揃えて深く頭を下げた。
指先を腿の脇にぴたりと添え、子爵令嬢として、そして公立工房の平職員としての礼を執る。
声が震えないよう、喉の奥を固く引き締めて言葉を紡いだ。
「ご凱旋、心よりお祝い申し上げます。本日の視察予定は伺っておりませんでしたが……何か、緊急の資材調達でしょうか」
形式通りの挨拶だった。
貴族社会の末端で身につけた、他人行儀な態度。
下げた頭の先で、床に落ちる二人の影が重なり合わずに離れているのを見つめる。
沈黙が落ちた。
部屋の中を支配するのは、魔石灯が発するかすかな熱の気配だけだった。
返答はすぐに戻ってこない。
ただ、衣擦れの音が一つだけ響き、影がわずかに動いた。
「……その呼び方は、よせと言ったはずだ」
硬く乾いた声が、頭上から降ってくる。
アイラは顔を上げないまま、唇を噛みしめた。
「公立工房の施設内ですので、職務上の礼を欠くわけにはまいりません。侯爵家の若き次期当主であり、小隊長を務められる貴方様に対して、無礼な振る舞いは許されませんので」
「アイラ」
鼓膜にその声が触れた瞬間、喉の奥がきゅっと狭まり、吸い込みかけた研磨油の冷えた空気が気管で止まった。
鎖骨の間に潜む魔石が、皮膚を内側から針で突くような鋭い熱を放つ。
アイラは作業机の縁に爪を食い込ませ、重心をかかとの骨へと預けて、足の震えを床板へ逃がした。
ゆっくりと顔を上げると、ユージーンが二歩、歩み寄っていた。
眉間に深い溝が刻まれ、引き結ばれた薄い唇が苛立ちを露わにしている。
手袋越しに握られた彼の右手が、腰の儀礼剣の柄を強く締め上げていた。
「周囲に誰もいない。この場所で、なぜそのような壁を作る」
「壁など作っておりません。身分を弁えているだけです」
「弁える、か」
ユージーンが喉の奥で冷たく息を漏らした。
彼がさらに一歩、距離を詰める。
革と鉄、乾いた泥の微かな匂いが鼻腔をかすめた。
戦場から持ち帰ってきた外の気配が、工房の密閉された空気を乱していく。
彼はアイラの顔を値踏みするように見つめ、それから作業机の上に置かれた青い石へと視線を滑らせた。
「俺が無事に戻ったかどうか、確かめる気もなかったのか。遠征の前も、お前は一度も顔を見せなかった」
「大勢の貴族の方々や、美しい令嬢たちが隊長殿をお見送りしておりました。私が工房を抜け出してまで割り込むような場ではございません」
「俺はお前の顔を探していた」
吐き捨てられた言葉の重みに、アイラの胸骨の裏側がきしんだ。
だが、その動揺を悟られまいと、アイラは瞳の焦点をわざと彼の胸元の銀ボタンへとずらす。
見てはいけない。
あの瞳を真正面から受け止めてしまえば、長年押し殺してきた感情が決壊してしまう。
幼い頃の彼は、もっと素直に笑っていた。
だがいまの彼は、王都の誰もが羨望の眼差しを向ける高嶺の存在だ。
下位貴族の娘が気安く名前を呼び、昔のように軽口を叩いていい相手ではない。
彼が自分に向ける執着のような眼差しは、単なる幼少期の慣れ親しんだ記憶への名残に過ぎないのだ。
そう自分に言い聞かせなければ、胸の痛みに押し潰されそうになる。
「……そのようなお気遣いは無用に願います。隊長殿の華々しいご活躍は、騎士団からの広報紙で拝読いたしました。素晴らしい功績でしたね」
「広報紙、だと」
ユージーンの声の温度が、一段と低く沈んだ。
彼の大きな手が机の上に置かれ、木板がきしりと音を立てる。
整った顔立ちが、影の中に鋭く切り取られていた。
光を失った藍色の瞳が、アイラの表情の隅々までをえぐるように見つめている。
「他人事のように言うな。俺が何のためにあの任務を引き受け、どれだけの速度で部隊を連れ戻したか、お前には何も伝わっていないのか」
「……私などに、騎士団の軍務の理由がわかるはずもありません」
アイラは乾いた喉でそう返し、わずかに顎を引いた。
ユージーンの首筋に、青い筋が浮かび上がるのが見えた。
彼は何かを言おうとして口を開きかけ、だがそのまま固く引き結んだ。
二人の間に、冷たく張り詰めた空気が漂う。
そのとき、アイラの薄い上着の下で、ペンダントの光が不規則に明滅した。
青い光が衣を透かして微かに漏れ出そうになる。
アイラは慌てて右腕を胸の前に回し、光の源を覆い隠した。
ユージーンの視線が、その不自然な手の動きへと注がれる。
彼の胸元でも、隊服の内側に隠された同じ波長の石が、共鳴して震えているはずだった。
だが、彼はそれについて何も口にしなかった。
「……そうか」
ぽつりと、かすれた声が落ちた。
ユージーンは机に置いていた手を静かに引き剥がす。
その動作には、凍りつくような拒絶の気配がにじんでいた。
「長旅の疲れで、判断が狂っていたようだ。公立工房の職員に、私的な用件で立ち寄るべきではなかったな」
彼は背筋を伸ばし、冷淡な表情の仮面を被り直した。
まるで公式の式典で整列する兵士のような、寸分の隙もない立ち姿だった。
アイラは胸元を抱え込んだまま、その場から動くことができない。
冷え切った視線が、アイラの頭上を通り過ぎて虚空へと向けられる。
「明日、資材課を通して正式な点検要請を出す。職務として、不備のないよう対応してもらおう」
「……かしこまりました。万全を期してお待ちしております」
アイラが下げた頭の向こうで、靴音が響いた。
迷いのない歩調で、背を向けて立ち去っていく足音。
重い扉が閉まり、冷たい風の通り道が途絶えた後も、作業場には静寂が居座り続けた。
アイラは机の縁にすがりつくようにして、その場に膝をつきそうになる。
胸元から取り出したペンダントは、乱れた光を明滅させていた。
引き裂かれた傷口から血が吹き出すように、激しい脈動が手のひらを打つ。
手のひらの中で明滅を繰り返す青い光を見つめながら、アイラは奥歯を強く噛みしめた。
視界が熱さでにじんでいくのを、誰にも見られない暗がりの中でただ耐え続けた。




