↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
下位貴族の調律師が身分差を理由に逃げたら、次期侯爵の英雄が血まみれで追いかけてきました  作者: 黒崎 隼人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/16

第4話「凍てつく回廊の問い」

 迎賓館の裏手へと続く白大理石の回廊は、庭園の木々が落とす深い影に覆われていた。

 高くそびえる列柱の合間から、青白い月光が敷石の上に規則正しい縞模様を描き出している。

 噴水から立ち上る水煙が夜風に運ばれ、アイラの露出した首筋を容赦なく冷やしていた。

 大広間から逃げ出し、人目を避けるようにして歩き続けた結果、足は自然とこの人気の途絶えた場所へと向かっていた。

 夜会はまだ宴の半ばのはずだった。

 主賓であるユージーンの周りには、今頃さらに多くの貴族たちが群がり、美酒を酌み交わしていることだろう。

 自分のような下位の存在が一人消えたところで、誰一つ気づくはずもない。

 胸元に戻したペンダントの熱は、冷たい夜気に晒されてもなお、くすぶる炭のように微熱を放ち続けていた。

 石の波長が落ち着かない。

 自分の乱れた感情のせいだと分かっていても、皮膚を通して伝わる不規則な脈動が、心を苛立たせる。

 アイラは立ち止まり、深くため息をこぼした。

 白く濁った息が、夜の闇に溶けて消えていく。


「……こんなところで、何をしている」


 背後から投げかけられた声に、アイラの喉がきゅっと締まった。

 振り返るよりも早く、靴底が石を踏む硬く乾いた響きが耳に届く。

 規則正しい、けれどどこか焦りを孕んだ歩調。

 列柱の影を切り裂いて現れたのは、息をわずかに乱したユージーンだった。

 純白の儀礼服の裾が夜風を孕んで揺れ、胸の勲章が月光を浴びて冷たい光を弾いている。

 主賓であるはずの彼が、なぜここにいるのか。

 取り巻きの貴族たちはどうしたのか。

 そして何より、あの公爵令嬢はどうしたのか。

 混乱が思考を埋め尽くす中、アイラは咄嗟に足元を引き、背筋を伸ばした。


「……ユージーン隊長殿」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく乾いていた。

 アイラはドレスの裾をつまみ、深く頭を下げる。


「主賓でいらっしゃる貴方様が、このような裏庭の回廊にお越しになるべきではございません。皆様がお探しです。どうぞ、大広間へお戻りください」


 視線を敷石の割れ目へと固定し、事務的な言葉を並べる。

 だが、返ってきたのは静寂ではなく、荒々しい衣擦れの音だった。

 影が急速に伸び、アイラの足元へと覆いかぶさる。

 顔を上げる暇もなく、目の前に白い布地と革靴が迫っていた。


「俺の問いに答えろ。なぜ逃げた」


 頭上から降ってきたのは、低く、怒りを押し殺したような声音だった。

 ユージーンの大きな手が伸び、アイラの肩を掴みかける。

 だが、彼の指先は触れる寸前で宙に止まり、悔しげに握りこまれて引き戻された。

 彼の手袋がきしりと音を立てる。

 アイラはわずかに顎を上げ、彼の胸元を見つめた。

 その瞳を直接見る勇気は、今のアイラには残されていなかった。


「逃げてなどおりません。工房の代理としての役目は、開会の場を見届けたことで果たしました。私のような身分の者がいつまでも居座っては、華やかな宴の場を汚してしまいますので」


「誰がそんなことを言った」


「言われるまでもないことです。常識として弁えております」


「弁える、弁える、と……お前はそればかりだな!」


 ユージーンの喉から、怒号に近い言葉が漏れ出た。

 いつもの冷徹な仮面が剥がれ落ち、露わになった彼の表情には、痛々しいほどの苛立ちが張り付いていた。

 月光の下で、彼の藍色の瞳が激しい炎を宿して揺らめいている。


「俺がどれだけ周囲の目を盗んで、会場中のお前の姿を探していたか、お前には微塵も想像がつかないのか。壁の隅に隠れるように立っているのを見つけたかと思えば、公爵令嬢の相手をしている隙に姿を消す。……俺から逃げることしか考えていないのか」


「探していただく理由がございません!」


 アイラの口からも、思わず強い拒絶の言葉が飛び出していた。

 胸の奥で渦巻いていた熱い塊が、喉元を押し破るように溢れ出す。


「隊長殿のお隣には、アリアーヌ様という素晴らしい方がいらっしゃいました。会場の誰もが、お二人の並び立つお姿を祝福しておりました。……そのような晴れやかなお席で、なぜ私のような者の顔を探す必要があるのですか」


「アリアーヌ様だと……?」


 ユージーンが眉間に深いしわを寄せ、怪訝そうに目を細めた。

 だが、その戸惑いはすぐに別の激しい感情へと塗りつぶされていく。

 彼は半歩、踏み込んできた。

 二人の距離が、手を伸ばせば触れられるほどに縮まる。

 彼のまとう清潔な石鹸と、冷たい夜気の匂いが、鼻腔をかすめる。


「公爵家との儀礼的な会話を交わしていただけだ。それが、お前が逃げ出す理由になるのか」


「邪魔をしては申し訳ないと思ったまでです。侯爵家の跡取りとして、相応しいお相手と歓談されるのは当然のことですから」


「白々しいことを言うな!」


 ユージーンが短く叫び、敷石を一歩踏み鳴らした。

 その瞳の奥に、暗く濁った炎が燃え上がる。

 彼はアイラの顔を射抜くように見下ろし、憎々しげに唇を歪めた。


「お前はそうやって、いつも身分を盾にして俺を突き放す。だが、あの工房の男の前ではどうだ。下町の職人相手には、何の壁も作らずに気安く笑いかけるのか。……あの男とは、どういう仲なんだ」


「……え?」


 思いもよらない名前の示唆に、アイラは呆然として言葉を失った。

 あの男。

 それは間違いなく、今朝の工房で親身に接してくれたレオンのことだった。

 なぜ、ここで彼の名が出てくるのか。

 なぜ、この夜会の席で、関係のない同僚の名を口にして自分を責め立てるのか。

 アイラの頭の中で、思考が急速に別の方向へと結びついていく。

 ユージーンは、かつての幼馴染が下品な下町の職人と親しくしていることが、気に入らないのだ。

 侯爵家の子息として、あるいは街の治安を守る部隊の長として、身分の秩序を乱すような自分の軽薄な振る舞いに、呆れ果てているのだ。

 自分を心配しているのではない。

 かつて関わりのあった人間が、見苦しい交友関係を持っていることに対する、貴族特有の不快感。

 そう解釈した瞬間、アイラの心の中に冷え切った絶望と、激しい怒りが同時に湧き上がった。


「……レオン先輩は、私の大切な仕事の仲間です」


 アイラは震える拳をドレスの脇で握りしめ、顔を上げてユージーンの瞳を真っ向から見据えた。


「私に技術を教えてくださり、工房での居場所を守ってくださる恩人です。隊長殿に、あの方を侮辱される筋合いはありません」


「大切な仲間、だと……?」


 ユージーンの顔から、すっと血の気が引いていくのが見えた。

 彼の唇が微かに震え、藍色の瞳が信じられないものを見るように見開かれる。


「あいつの淹れた茶を嬉しそうに飲み、あいつに笑いかけ、あいつのために菓子屋の場所を教えると約束した。あいつの手入れした刃物を大事そうに握りしめて……俺には、この何年間、一度も見せなかった顔で」


「それが私の日常だからです!」


 アイラは叫んでいた。

 胸の奥が張り裂けそうだった。

 なぜ、彼にそんなことを言われなければならないのか。

 自分を遠い世界へと置き去りにしたのは彼の方なのに。

 華やかな令嬢の手を取り、貴族社会の頂点へと歩みを進めている彼が、なぜ自分のささやかな日々の居場所まで踏みにじろうとするのか。


「私は公立工房の調律師です。泥にまみれて、油の匂いを嗅ぎながら生きる平民同然の女です。貴方様のように、きらびやかな衣装をまとって賞賛を浴びる方とは、住む世界が違うのです。……私の交友関係にまで、隊長殿が干渉なさらないでください」


「干渉……」


 ユージーンの声が、かすれた。

 彼の手が力なく下がり、その指先が微かに震えている。

 まるで、目に見えない刃で胸を深く切り裂かれたかのように、彼の端正な顔が痛みに歪んでいた。

 だが、その表情の真意を読み解く余裕など、今のアイラには残されていなかった。

 胸元のペンダントが、服の下で焼けるような光を放ち、二人の間で激しく共鳴していた。

 乱れ狂った波長。

 拒絶と断絶の光が、布地を透かして青く明滅している。

 ユージーンの胸元でも、全く同じ光が激しく瞬いていた。

 だが、二人の間に横たわる距離は、一歩も縮まらない。


「……もう、終わりにしてください」


 アイラはそれだけを言い残し、ユージーンの横をすり抜けるようにして駆け出した。

 石造りの回廊を、古いドレスの裾を翻しながら走る。

 背後から呼び止める声は、聞こえなかった。

 ただ、冷え切った夜風が二人の間に吹き抜け、取り返しのつかない亀裂の深さを、静寂の中に刻みつけていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。