第4話「凍てつく回廊の問い」
迎賓館の裏手へと続く白大理石の回廊は、庭園の木々が落とす深い影に覆われていた。
高くそびえる列柱の合間から、青白い月光が敷石の上に規則正しい縞模様を描き出している。
噴水から立ち上る水煙が夜風に運ばれ、アイラの露出した首筋を容赦なく冷やしていた。
大広間から逃げ出し、人目を避けるようにして歩き続けた結果、足は自然とこの人気の途絶えた場所へと向かっていた。
夜会はまだ宴の半ばのはずだった。
主賓であるユージーンの周りには、今頃さらに多くの貴族たちが群がり、美酒を酌み交わしていることだろう。
自分のような下位の存在が一人消えたところで、誰一つ気づくはずもない。
胸元に戻したペンダントの熱は、冷たい夜気に晒されてもなお、くすぶる炭のように微熱を放ち続けていた。
石の波長が落ち着かない。
自分の乱れた感情のせいだと分かっていても、皮膚を通して伝わる不規則な脈動が、心を苛立たせる。
アイラは立ち止まり、深くため息をこぼした。
白く濁った息が、夜の闇に溶けて消えていく。
「……こんなところで、何をしている」
背後から投げかけられた声に、アイラの喉がきゅっと締まった。
振り返るよりも早く、靴底が石を踏む硬く乾いた響きが耳に届く。
規則正しい、けれどどこか焦りを孕んだ歩調。
列柱の影を切り裂いて現れたのは、息をわずかに乱したユージーンだった。
純白の儀礼服の裾が夜風を孕んで揺れ、胸の勲章が月光を浴びて冷たい光を弾いている。
主賓であるはずの彼が、なぜここにいるのか。
取り巻きの貴族たちはどうしたのか。
そして何より、あの公爵令嬢はどうしたのか。
混乱が思考を埋め尽くす中、アイラは咄嗟に足元を引き、背筋を伸ばした。
「……ユージーン隊長殿」
絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく乾いていた。
アイラはドレスの裾をつまみ、深く頭を下げる。
「主賓でいらっしゃる貴方様が、このような裏庭の回廊にお越しになるべきではございません。皆様がお探しです。どうぞ、大広間へお戻りください」
視線を敷石の割れ目へと固定し、事務的な言葉を並べる。
だが、返ってきたのは静寂ではなく、荒々しい衣擦れの音だった。
影が急速に伸び、アイラの足元へと覆いかぶさる。
顔を上げる暇もなく、目の前に白い布地と革靴が迫っていた。
「俺の問いに答えろ。なぜ逃げた」
頭上から降ってきたのは、低く、怒りを押し殺したような声音だった。
ユージーンの大きな手が伸び、アイラの肩を掴みかける。
だが、彼の指先は触れる寸前で宙に止まり、悔しげに握りこまれて引き戻された。
彼の手袋がきしりと音を立てる。
アイラはわずかに顎を上げ、彼の胸元を見つめた。
その瞳を直接見る勇気は、今のアイラには残されていなかった。
「逃げてなどおりません。工房の代理としての役目は、開会の場を見届けたことで果たしました。私のような身分の者がいつまでも居座っては、華やかな宴の場を汚してしまいますので」
「誰がそんなことを言った」
「言われるまでもないことです。常識として弁えております」
「弁える、弁える、と……お前はそればかりだな!」
ユージーンの喉から、怒号に近い言葉が漏れ出た。
いつもの冷徹な仮面が剥がれ落ち、露わになった彼の表情には、痛々しいほどの苛立ちが張り付いていた。
月光の下で、彼の藍色の瞳が激しい炎を宿して揺らめいている。
「俺がどれだけ周囲の目を盗んで、会場中のお前の姿を探していたか、お前には微塵も想像がつかないのか。壁の隅に隠れるように立っているのを見つけたかと思えば、公爵令嬢の相手をしている隙に姿を消す。……俺から逃げることしか考えていないのか」
「探していただく理由がございません!」
アイラの口からも、思わず強い拒絶の言葉が飛び出していた。
胸の奥で渦巻いていた熱い塊が、喉元を押し破るように溢れ出す。
「隊長殿のお隣には、アリアーヌ様という素晴らしい方がいらっしゃいました。会場の誰もが、お二人の並び立つお姿を祝福しておりました。……そのような晴れやかなお席で、なぜ私のような者の顔を探す必要があるのですか」
「アリアーヌ様だと……?」
ユージーンが眉間に深いしわを寄せ、怪訝そうに目を細めた。
だが、その戸惑いはすぐに別の激しい感情へと塗りつぶされていく。
彼は半歩、踏み込んできた。
二人の距離が、手を伸ばせば触れられるほどに縮まる。
彼のまとう清潔な石鹸と、冷たい夜気の匂いが、鼻腔をかすめる。
「公爵家との儀礼的な会話を交わしていただけだ。それが、お前が逃げ出す理由になるのか」
「邪魔をしては申し訳ないと思ったまでです。侯爵家の跡取りとして、相応しいお相手と歓談されるのは当然のことですから」
「白々しいことを言うな!」
ユージーンが短く叫び、敷石を一歩踏み鳴らした。
その瞳の奥に、暗く濁った炎が燃え上がる。
彼はアイラの顔を射抜くように見下ろし、憎々しげに唇を歪めた。
「お前はそうやって、いつも身分を盾にして俺を突き放す。だが、あの工房の男の前ではどうだ。下町の職人相手には、何の壁も作らずに気安く笑いかけるのか。……あの男とは、どういう仲なんだ」
「……え?」
思いもよらない名前の示唆に、アイラは呆然として言葉を失った。
あの男。
それは間違いなく、今朝の工房で親身に接してくれたレオンのことだった。
なぜ、ここで彼の名が出てくるのか。
なぜ、この夜会の席で、関係のない同僚の名を口にして自分を責め立てるのか。
アイラの頭の中で、思考が急速に別の方向へと結びついていく。
ユージーンは、かつての幼馴染が下品な下町の職人と親しくしていることが、気に入らないのだ。
侯爵家の子息として、あるいは街の治安を守る部隊の長として、身分の秩序を乱すような自分の軽薄な振る舞いに、呆れ果てているのだ。
自分を心配しているのではない。
かつて関わりのあった人間が、見苦しい交友関係を持っていることに対する、貴族特有の不快感。
そう解釈した瞬間、アイラの心の中に冷え切った絶望と、激しい怒りが同時に湧き上がった。
「……レオン先輩は、私の大切な仕事の仲間です」
アイラは震える拳をドレスの脇で握りしめ、顔を上げてユージーンの瞳を真っ向から見据えた。
「私に技術を教えてくださり、工房での居場所を守ってくださる恩人です。隊長殿に、あの方を侮辱される筋合いはありません」
「大切な仲間、だと……?」
ユージーンの顔から、すっと血の気が引いていくのが見えた。
彼の唇が微かに震え、藍色の瞳が信じられないものを見るように見開かれる。
「あいつの淹れた茶を嬉しそうに飲み、あいつに笑いかけ、あいつのために菓子屋の場所を教えると約束した。あいつの手入れした刃物を大事そうに握りしめて……俺には、この何年間、一度も見せなかった顔で」
「それが私の日常だからです!」
アイラは叫んでいた。
胸の奥が張り裂けそうだった。
なぜ、彼にそんなことを言われなければならないのか。
自分を遠い世界へと置き去りにしたのは彼の方なのに。
華やかな令嬢の手を取り、貴族社会の頂点へと歩みを進めている彼が、なぜ自分のささやかな日々の居場所まで踏みにじろうとするのか。
「私は公立工房の調律師です。泥にまみれて、油の匂いを嗅ぎながら生きる平民同然の女です。貴方様のように、きらびやかな衣装をまとって賞賛を浴びる方とは、住む世界が違うのです。……私の交友関係にまで、隊長殿が干渉なさらないでください」
「干渉……」
ユージーンの声が、かすれた。
彼の手が力なく下がり、その指先が微かに震えている。
まるで、目に見えない刃で胸を深く切り裂かれたかのように、彼の端正な顔が痛みに歪んでいた。
だが、その表情の真意を読み解く余裕など、今のアイラには残されていなかった。
胸元のペンダントが、服の下で焼けるような光を放ち、二人の間で激しく共鳴していた。
乱れ狂った波長。
拒絶と断絶の光が、布地を透かして青く明滅している。
ユージーンの胸元でも、全く同じ光が激しく瞬いていた。
だが、二人の間に横たわる距離は、一歩も縮まらない。
「……もう、終わりにしてください」
アイラはそれだけを言い残し、ユージーンの横をすり抜けるようにして駆け出した。
石造りの回廊を、古いドレスの裾を翻しながら走る。
背後から呼び止める声は、聞こえなかった。
ただ、冷え切った夜風が二人の間に吹き抜け、取り返しのつかない亀裂の深さを、静寂の中に刻みつけていた。




