番外編「氷面の奥で燃えるもの」
◇ユージーン
白銀の甲冑を脱ぎ捨てたあとの筋肉は、過酷な軍務の疲労によって鉛のように重かった。
西方の森林地帯で屠った魔獣の数は、優に百を超えている。
肉を断ち、骨を砕くたびに、周囲の兵士たちは若き小隊長の天賦の才を称え、歓声を上げた。
だが、ユージーンの胸の奥を占めていたのは、勝利の高揚感などでは断じてなかった。
敵の返り血を浴びながら彼が考えていたのは、ただ一つ。
どれほどの速度で軍を引けば、一日でも早く星都市アルケナへ戻れるかということだけだった。
隊服の内側、鎖骨の間に潜ませた銀枠の魔石に触れる。
冷えた鉱物の感触が、狂乱の戦場で唯一、彼の理性を繋ぎ止める錨だった。
この石を渡した十年前の記憶が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。
街外れの鉱山跡で泥濘に塗れながら原石を掘り当て、手のひらを血豆だらけにして持ち帰った日のこと。
受け取ったアイラが、その瞳を驚きに見開き、震える指先で石を抱きしめた瞬間のこと。
彼女が削り、彼女が調律した石でなければ、自分の心臓は動かない。
その病的なまでの執着を、ユージーンは誰にも明かしたことはなかった。
名門クロムウェル侯爵家の嫡男として、常に完璧で、冷徹で、感情を交えずに責務を果たす人形。
それが周囲から求められる自分の役割であり、その仮面を被り続けることでしか、彼女を守るための地位を固める術がなかったからだ。
だが、三週間ぶりに帰還した工房の夜、その仮面は脆くも粉砕されかけた。
暗がりの中で、薄い作業服を着たアイラが自分に向けて見せたのは、統制された貴族の礼法だった。
深々と下げられた頭、足元を揃えた立ち姿。
そして、氷のように冷たく紡がれた「隊長殿」という他人行儀な呼び名。
その瞬間、ユージーンの喉の奥から、煮えたぎる鉛のような苦い液体が逆流しそうになった。
無事を確かめたかった。
怪我はないかと、やつれてはいないかと、その細い肩を抱き寄せて自らの熱を確かめたかった。
それなのに、彼女が築いた見えない城壁は、いかなる魔獣の皮膚よりも硬く、冷酷に彼を拒絶していた。
作業机を掴んだ自分の手が、どれほど惨めに震えていたか。
彼女は自分の手袋のきしみすら見ようとせず、視線を床の木目へと固定していた。
胸元の石が、彼女の拒絶を吸い上げて、狂ったように熱を放つ。
痛い。
胸が焼けるように痛い。
戦場でどれほど深い傷を負っても眉一つ動かさなかった男が、彼女のよそよそしい一言で、立っていることすら危ういほどの激痛に苛まれていた。
翌朝、正式な視察という名目を無理やり作り出し、工房へ足を向けたのは、もはや理性の判断ではなかった。
昨夜の冷え切った別れを、何としても上書きしなければならないという焦燥。
だが、朝の光が満ちる作業場の扉を開けた瞬間、ユージーンの視界は真っ赤に染まった。
アイラが、笑っていた。
眉を柔らかく下げ、白い頬を微かに染め、口元に屈託のない笑みをこぼしていた。
その視線の先にいたのは、自分ではなかった。
下町の職人特有の粗野な身なりをした、茶髪の青年。
レオンと呼ばれていたその男が、親しげに机の端に腰掛け、アイラに湯気の立つ杯を差し出していた。
しかも机の上には、ユージーンが副官を通して密かに届けさせた極上の白鯨油で、手入れされたばかりの器具が置かれていた。
アイラが口にしたのは、幼い頃に二人で通った東通りの焼き菓子屋の名だった。
自分が与えたかった日常を、二人だけの思い出の文脈を、横から他人に上書きされていく恐怖。
ユージーンの全身の血液が、逆流するように沸騰した。
あの男の首を今すぐへし折り、二度と彼女の前に姿を現せないようにしてやりたいという衝動が、右手の指先を激しく痙攣させた。
腰の剣の柄に伸びそうになる手を、手袋の裏側で爪が肉に食い込むほど握りしめて耐える。
自制しろ、と頭の中で冷徹な自分が嘲笑う。
ここで暴れれば、彼女は二度と自分を見なくなる。
だが、ユージーンが足を踏み入れた途端、アイラの顔からすべての笑みが剥ぎ取られた。
陶器の杯を持つ彼女の指先が白く強張り、怯えたように瞳が冷え切っていく。
その急激な拒絶の落差が、ユージーンの心を千々に引き裂いた。
なぜだ。
なぜ、あんな男には笑いかけるのに、俺にはその氷のような目しか向けないのか。
俺がお前のためにどれだけの血を流し、どれだけの地位を積み上げてきたか、なぜ何も伝わらないのか。
手を出せば壊してしまう。
叫び出せば逃げられてしまう。
その恐怖だけが彼を縛り付け、結果として吐き出せたのは、冷酷な嫌味だけだった。
背を向けて工房を去ったとき、ユージーンの胸元の石は、まるで砕け散る前触れのように不協和音を響かせていた。
迎賓館の夜会は、ユージーンにとって地獄そのものだった。
胸に飾られた勲章も、周囲の貴族たちの媚びへつらいも、虫けらの羽音のようにしか聞こえない。
隣に侍るヴァレンティン公爵令嬢が、これ見よがしに腕を絡めてくるたび、その皮膚を切り落としたいほどの嫌悪感が背筋を走った。
公爵家との婚姻など、最初から受ける気など微塵もなかった。
父が裏で進めていた話は、すでに前日の軍議の席で明確に拒絶してある。
王室への発言権を得るための武功も、十分に立てていた。
すべては、アイラを正式に娶るための地ならしだった。
それなのに。
大広間の大理石の円柱の陰に、身を縮めるようにして立っていたアイラの姿を見つけた瞬間、ユージーンの心臓は激しく跳ね上がった。
古い濃紺のドレスを着た彼女は、痛々しいほど小さく見えた。
駆け寄りたい、今すぐにこの煩わしい貴族たちの群れを押し退けて、彼女の手を引いて連れ去りたい。
そう願った矢先、彼女の視線がユージーンと絡み合った。
彼女の瞳に浮かんでいたのは、嫉妬や怒りなどではなく、底知れない絶望と諦めだった。
彼女の手が胸元を押さえ、そのまま背を向けて硝子扉の向こうへ走り去っていく。
待て、と叫びそうになる喉を、公爵令嬢の形式的な挨拶が塞いだ。
ユージーンは冷徹な声音で令嬢の腕を振り払い、周囲の制止を一切無視して回廊へと走った。
礼法も、体面も、次期侯爵としての誇りも、その瞬間の彼には何の価値もなかった。
ただ、彼女を失うという恐怖だけが、彼を走らせていた。
だが、裏庭の回廊で追いついた彼女が口にしたのは、再び身分という壁と、あの職人の名前だった。
レオンを庇い、自分を拒絶する彼女の言葉。
干渉するな、と吐き捨てられた瞬間、ユージーンの目の前は真っ暗になった。
彼女の心は、すでにあの職人のものになっていたのだ。
十年間の自分の想いは、彼女にとって単なる重荷で、迷惑な押しつけに過ぎなかったのだ。
その絶望が、彼を狂気に追いやった。
夜会の翌朝から、彼は自ら死地を求めるように北の坑道へと出撃した。
暴走した魔石の破片を浴び、変異種の爪が左腕の肉を裂いたとき、ユージーンは痛みを心地よいとすら感じていた。
このまま血を流し尽くして死ねば、あの冷たい眼差しを思い出さずに済む。
そう思った刹那、胸の奥で、激しい青い光が爆発した。
死ぬな、と叫ぶような、狂おしい波長。
アイラの石が、彼の魂を引き戻すように強く脈打っていた。
意識が途切れる寸前、ユージーンが馬の手綱を引いた先は、軍の医務室ではなく、あの薄暗い公立工房だった。
すべてをさらけ出し、彼女の涙に触れた調律室の夜を経て、いま、ユージーンの左手の薬指には小さな銀の輪が収まっている。
見張り塔の上で、彼女が誰よりも貴方だけを愛していたと泣き崩れた瞬間の感覚を、彼は生涯忘れることはないだろう。
自分の執着は、決して一方通行の狂気ではなかった。
彼女もまた、自分と同じ深さの暗闇の中で、同じ熱量の炎に身を焦がし続けていたのだ。
ユージーンは寝台の横で静かに息を立てるアイラの寝顔を見つめ、その華奢な指先に自らの指を絡めた。
もう二度と、この手を離しはしない。
世界中のすべてを敵に回そうとも、彼女の放つ光だけを、生涯をかけて奪い取り、慈しみ、守り抜くと、彼は静寂の中で静かに誓い直していた。




