エピローグ「重なり合う軌跡」
やわらかな朝の光が、木漏れ日のように白い麻のカーテンを透かして床に揺れていた。
鳥のさえずりが遠く旧市街の屋根を渡り、開け放たれた小窓から初夏の乾いた風が吹き込んでくる。
アイラは薄手の部屋着の袖をまくり、小さな台所の天板に二つの陶器の杯を並べた。
銀の小匙で缶から掬い上げた茶葉を、温めておいた硝子の急須へと落とす。
乾燥させた林檎の皮と矢車菊をブレンドした、爽やかな甘みを持つ茶葉だった。
沸き立った湯を注ぎ入れると、茶色い葉がふわりと湯の中で踊り、琥珀色の液体がゆっくりと広がっていく。
立ち上る湯気を吸い込みながら、アイラは小さく息を吐いた。
あの見張り塔の夜から、三カ月の月日が流れていた。
その間に起きた出来事は、目まぐるしいという言葉では足りないほどの激動だった。
ユージーンが公爵家との縁談を公の場で正式に破棄し、子爵家の末娘であるアイラとの婚約を発表したとき、社交界は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
だが、彼が北の坑道討伐で挙げた決定的な功績と、軍部からの揺るぎない支持、そして何より本人の妥協を許さない毅然とした態度が、貴族たちの反発を力ずくでねじ伏せた。
アイラ自身もまた、工房での卓越した調律実績と、防衛結界の補修における功績を評価され、王室付きの公認調律師としての資格を授与されていた。
身分の差を埋めるための努力は、決して楽なものではなかった。
けれど、彼の手のひらの温もりを知った今のアイラには、どんな試練も恐ろしいとは思えなかった。
「……アイラ」
背後からかけられた声は、寝起きの掠れた低さを孕んでいた。
振り返ると、寝室の扉枠に肩をもたせかけ、ユージーンが眠そうに目を細めて立っていた。
騎士団の正装でも、仕立てのいい外套でもない。
洗いざらしの白い木綿のシャツに、ゆったりとした灰色のズボンという、無防備な装いだった。
普段は撫で付けられている濃紺の髪が、前髪のあたりで小さく跳ねている。
街中の誰もが見上げ、恐れ敬う若き英雄の、この世で自分だけが知っている朝の姿。
その光景を見るたびに、アイラの胸の奥には、じんわりとした温かい愛おしさが込み上げてくるのだった。
「おはようございます、ユージーン。もう起きてしまってよかったのですか。非番の日は、昼まで寝ていていいと言ったのに」
「部屋の中にお前の気配がないと、落ち着いて眠れない」
ユージーンは気だるげに歩み寄り、アイラの背後から長い腕を伸ばした。
そのまま、彼女の細い腰をすっぽりと抱き込み、自分の胸板へと引き寄せる。
アイラの首筋に、彼の熱い額が預けられた。
寝起きの温かい呼気がうなじをくすぐり、アイラは思わず首をすくめて笑った。
「くすぐったいです。……お茶を淹れている途中なんですから、少し離れてください」
「嫌だ。……この匂いが、一番落ち着く」
ユージーンはアイラの肩口に鼻先を埋め、深く息を吸い込んだ。
石鹸の香りと、乾燥ハーブの甘い匂い。
その腕の力は驚くほど優しく、けれど絶対に逃がさないという確固たる意志に満ちている。
アイラは小匙を置き、自らの手を彼の前腕へと重ねた。
左腕の古傷は、もう綺麗に塞がり、白い筋となって皮膚に残っているだけだった。
二人の左手の薬指に嵌められた銀の指輪が、触れ合い、微かな光を放つ。
内蔵された小さな双子の魔石は、穏やかな朝の光に同調するように、淡い碧色の光を規則正しく明滅させていた。
「工房の方は、落ち着いたのか」
ユージーンがアイラの耳元で囁いた。
「ええ。レオン先輩が、新しい見習いの指導で忙しそうにしていますけれど。昨日は『お前がいなくなって作業効率は落ちたが、耳元の小言が減って清々する』なんて軽口を叩いていました」
「あいつは相変わらず、生意気な口を利く男だな」
ユージーンがわずかに眉を寄せ、不快そうに鼻を鳴らした。
過去の誤解が解けた今でも、彼はレオンの名前が出るたびに、微かな独占欲をにじませる癖が抜けきっていない。
その子供じみた頑なさが可笑しくて、アイラはくすくすと笑い声を漏らした。
「本当に、嫉妬深い方ですね。先輩には妹さんがいて、この前そのお祝いの席に私も呼んでいただいたんですよ」
「……俺も同行するべきだったな」
「隊長殿が来られたら、職人さんたちが緊張してお祝いどころではなくなってしまいます」
アイラはユージーンの腕の中でくるりと向き直り、彼の首の後ろに両手を回した。
至近距離で見つめ合う藍色の瞳には、かつてのような凍てつく気配は欠片も残されていない。
そこにあるのは、どこまでも深く、澄み切った、アイラだけを映し出す熱情だった。
アイラは背伸びをし、彼の跳ねた前髪を指先で優しく整えた。
「私が誰だけを見ているか、もうわかっているでしょう?」
かつて彼から投げかけられた問いを、今度はアイラが柔らかな微笑みと共に返した。
ユージーンの瞳が、驚きにわずかに丸くなり、それから幸福を噛みしめるように細められた。
彼の手がアイラの頬に添えられ、親指の腹でその柔らかな唇をなぞる。
「ああ。……知っている」
重なり合う吐息。
触れ合った唇から、温かな熱が静かに染み渡っていく。
それは激しい略奪ではなく、ただ互いがここに存在し、同じ時間を分かち合っていることを確かめ合うための、穏やかで深い口づけだった。
急須の中で、紅茶がちょうど飲み頃の色合いへと落ち着く。
小窓から差し込む陽光が、テーブルの上の二つの杯を黄金色に照らし出し、二人の落とす影をひとつの輪郭へと溶け合わせていた。
すれ違い、傷つけ合い、遠回りを繰り返した二つの軌跡は、いま完全に重なり合っていた。
朝の静寂の中で、二つの魔石が放つ碧落の光脈は、これから紡がれる果てしない日常のすべてを祝福するように、どこまでも穏やかに瞬き続けていた。




