第3話「野生行動研究センター設立」
その週末、浅井は藤代の部屋にいた。
特に用件はなかった。「設立するか」という一言のLINEが来て、気がついたら最寄り駅に向かっていた。それくらいの軽さだった。
藤代の部屋は思ったより片付いていた。机の上に教科書と文庫本が積んであって、窓際に観葉植物が一個置いてあった。スマートスピーカーがあって、部屋に入ったとき何かジャズっぽい音楽が流れていた。こいつそういうやつだったのかと少し意外だった。
「まずアカウント名だ」と藤代が言った。ノートパソコンを膝の上に置いて、もう始める気でいた。
「WBRC、でいいんじゃないの」
「ローマ字だと検索に引っかかりにくい」
「野生行動研究センター、そのまま?」
「長い。でも略すと伝わらない」
二人でしばらく考えた。
「WBRCで、プロフィールの頭に『野生行動研究センター(WBRC)』って書けば」
「それがいいな」と藤代が即決した。「プロフィール文は?」
浅井は少し考えた。「『人間の野生的行動を観察・記録・報告する非営利研究機関です』」
「非営利ってつけるといい。なんか本物っぽい」
「本物じゃないけど」
「それがいい」
ロゴで三十分かかった。
藤代はAIに「学術機関のロゴ、ミニマル、モノクロ、中央に顕微鏡と人のシルエット、英語でWBRC」と打ち込んで、出てきた画像を一個ずつ検討した。浅井は横から見ていた。
「これは研究所すぎる」 「これは病院っぽい」 「これは……なんか怖い」 「これは悪くない」
四枚目でほぼ決まった。白地に黒のラインで描かれた顕微鏡と、その横に小さな人の影。シンプルすぎてむしろ本物っぽかった。
「いいじゃん」と浅井は言った。
「もう一声」と藤代が言って、また三枚生成した。
「これはもっといい」
浅井が見ると、顕微鏡がわずかに傾いていた。その分だけ少し人間っぽくなっていた。
「確かに」と浅井は言った。
藤代がダウンロードした。
最初の投稿が問題だった。
「何を観察するの」
「今日来るとき、何か見た?」と藤代が言った。
浅井は考えた。「電車の中で、ドア閉まりそうになったのにギリギリで乗ってきたおじさんがいた」
「それだ」
「え、それだけ?」
「それだけで十分」
藤代がキーボードを叩き始めた。
「『午前10時47分、某路線車内において、発車ベルの鳴動中にドアへ駆け込む成体雄一名が観察された。同個体はドア接触後、周囲を一瞥し、スマートフォンを取り出して画面を凝視する行動に移行した。本センターは当該行動を「発覚回避型収束行動」と定義し、継続的な観察を推奨する』」
浅井は声を出して笑った。
「発覚回避型収束行動」
「やばい?」
「最高だよ」
アカウントを公開したのは昼過ぎだった。
投稿ボタンを押したのは浅井だった。藤代に「やって」と言われたからだ。押す前に一回「本当に出すの」と確認した。藤代は「出して」と言った。
押した。
画面に「投稿しました」と出た。
それだけだった。
二人でしばらくスマホを眺めた。いいねは来なかった。フォロワーはゼロだった。当たり前だった。作ったばかりだから。
「全世界に公開されてるんだよな、これ」と浅井は言った。
「されてる」
「誰かが見るかもしれない」
「かもしれない」
藤代はスマートスピーカーの音楽を少し上げた。ジャズが部屋に広がった。浅井は窓の外を見た。住宅地の屋根が続いていた。どこかの家から芝刈り機の音がした。
「なんか緊張するな」と浅井は言った。
「俺もしてる」と藤代が言った。笑っていた。
「緊張すること、久しぶりにやった気がする」
藤代は少し考えてから「そうだね」と言った。「それ、悪くないね」
浅井はそれについて何も言わなかった。
でも、悪くなかった。




