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第10話「創世記」

第10話「創世記」

「ちゃんとしたの、作ってみようか」


藤代がそれを言い出したのは、日曜日の夜だった。


浅井はスマホから顔を上げた。「何を?」


「経典みたいなやつ」と藤代が言った。「本物の宗教ってさ、テキストがあるじゃん。聖書とかコーランとか。あれがあると、信者が「これが正しい」って参照できる根拠になる。WBRCにはそれがない」


「経典って……聖書みたいなやつ?笑」


「まあそう! でも俺たちは研究センターだから、論文の形にしようと思って」


「論文を聖書にする感じ?笑」


「そう!」と藤代は言った。「俺たちなら論文が聖書になるんじゃない? そっちの方がかっこよくない?笑」


浅井はしばらく考えた。そっか、と思った。聖書は聖書の言葉で書いてある。コーランもコーランの言葉で書いてある。WBRCには学術体がある。学術体で書かれた論文が、信者にとっての聖書になる。


「……それちょっとやばい発明じゃん笑笑」


「でしょ!」と藤代は嬉しそうに言った。「タイトルも、ちゃんと論文っぽくした方が良くない? 「〇〇に関する考察」みたいな」


「考察笑 授業のレポートじゃん」


「でもそっちの方が説得力ある!」


翌週、書いた。藤代の隣でノートPCを広げて書いた。タイトルを決めるのに30分かかった。


「「マダニの生態と生物の幸福に関する考察」は?」と浅井が言った。


「もうちょっと長い方がいいかな」と藤代が言った。「論文って長いタイトルのほうが本物っぽいじゃん?笑」


「笑 じゃあ「マダニの行動研究から見る生物の最大幸福に関する考察」は?」


「それがいい!!」と藤代が即答した。「最大幸福ってところが最高。「最大」ってつくと急に哲学っぽくなる」


「わかった笑 これで行く」


段落を書くたびに「ここどう?」と見せると、藤代が「もうちょっと専門用語増やして」「この段落削った方が刺さる」と言った。削るたびに、なんか本物っぽくなっていった。


「なんか本物になってきた笑」と浅井は言った。


「本物だよ? 俺たちが書いたんだから」と藤代は言った。「本物かどうかは誰かが決めることなんだけど、WBRCのコンテキストで出てきたら本物に見える」


「哲学笑」


完成したテキストはこうなった。


「マダニの行動研究から見る生物の最大幸福に関する考察」               — 野生行動研究センター(WBRC)第一論文


生物の幸福は、刺激への純粋な反応によって定義される。


マダニ(Ixodida)は視覚・聴覚を持たない。感知できるものは温度、酪酸、振動の三つだけだ。それだけで18年間を生き、最適な反応の瞬間を待ち続ける。この生物に不安は存在しない。後悔は存在しない。他者との比較も、存在しない。


本センターはこの観察から、次の命題を提唱する。


感知するものを選べ。反応するものを選べ。あとは、ただ反応せよ。


これが、ヴィラ・ナチュラーレにおいて実践されている唯一の行動原則である。意識という余分なレイヤーを取り除いたとき、生物は最も自由になれる。


「いいじゃん!!」と藤代が言った。「これ絶対バズる」


「これたぶんバズるけど、俺これ書いてて普通に面白くなってきた笑」と浅井は言った。「学術論文ってすごい発明だよな。難しそうに書けば何でも本物に見える」


「形式が信頼性を作るんだよ!」と藤代は言った。「宗教も一緒で、書いてある媒体が豪華だから信じる。WBRCなら論文が豪華な媒体」


「宗教の作り方!!笑」


投稿した。48時間で、リキャストが800件を超えた。


コメントが来た。「これを読んでSNSを全部消した」「論文を印刷して壁に貼っています」「「感知するものを選べ」という言葉が、毎日頭に残ってる」「英語に翻訳しました。拡散お願いします」


「印刷して壁に貼ってるやつがいる!!笑」と浅井は藤代に送った。


「信者じゃん!!」と返ってきた。「完全に聖書になってる笑」


「論文が聖書になった!!笑笑」


それから一週間、コメント欄が賑わった。自分なりの「反応的生物」解釈を書いてくる人、「次の論文はいつ出ますか?」と聞いてくる人、論文を読んで職場を辞めたと言ってくる人まで出た。


「行動の指針も作ろうか」と藤代が言ったのは、その翌週だった。


「何それ」


「信者に、どう行動するか教えてあげる感じ。「研究者として生きるには」みたいな」


「……それはもう完全に宗教じゃん笑」


「ずっと宗教だよ?」と藤代は言った。にこにこしていた。「あとはどう設計するかだけ!」


「笑 わかった、一緒に考える」


行動規範を一緒に作った。藤代がアイデアを出して、浅井が文章にした。


「一番と二番はシンプルに」と藤代が言った。「三番は少し哲学的に。で、四番がポイント」


「四番は?」


「「ヴィラ・ナチュラーレに入りたい人」に向けた一文にしたい」と藤代が言った。「「準備ができたとき現れる」って書くと、誰も入れないんだけど、それが「準備不足だから」に読めるじゃん。自分のせいにしてくれる」


「……それ最初から計算してたの?!」


「なんとなく笑」


「怖いわ!笑」


最終的にこうなった。


「ヴィラ・ナチュラーレ 研究者のための行動規範」  一. 感知するものを、自ら定義せよ  二. 他者の反応に反応するな  三. 記録せよ。観察せよ。名前をつけるな  四. ヴィラ・ナチュラーレは、あなたがその準備を整えたときに現れる


「四番、ぞくっとした笑」と浅井は言った。「なんかポエムっぽくて、でも怖い」


「「あなた」って入れるのがポイントで」と藤代が言った。「「準備ができた」と感じた瞬間に、場所がそこにあるって読める。だから行動させられる」


「行動させられる…」と浅井は繰り返した。「うわあ笑」


投稿した翌日から、コメントのトーンが変わった。


「四番の言葉を、毎朝起きたときに確認してる」「ヴィラ・ナチュラーレへの準備を始めた」「第一論文を読んでから、感知するものを絞ってきた。三週間後、少しだけ楽になった」


以前より長かった。真剣だった。「面白い笑」じゃなくて「これが正しい」と書いてあった。


「なんか、受け取り方変わってきた気がしない?」と浅井は藤代に送った。


「変わったね! 本物になってきた」と返ってきた。


「本物になっちゃっていいの笑」


「いいんじゃない!」


浅井は既読をつけて、少しだけ笑った。その夜のDM欄の一番下に、一件だけ種類が違うものがあった。


「准研究員になりたいです。どうすれば正式なメンバーになれますか。第一論文を読んで、ずっとこの場所を求めていたとわかりました。あなたたちともっと近いところで、研究がしたいです」


浅井は、それを藤代に転送しなかった。

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