歌臼大学連続吸血事件 第二十二話
遠く東の空が白んでくる。冬の朝は遅く、ようやく昇った朝日をベランダから眺める女が居た。顔色は悪く、夜を明かした事は誰の目にも明らかだった。
不安がる摩耶に映画など見せて落ち着かせ、やっとの事で寝かしつけたのが昨夜の二時半頃、ただでさえ朝の弱い摩耶は今日はもう昼まで起きては来ないだろう。
少し寝ようか、そんな事をぼんやりと都会のゴミゴミとした街並みを眺めながら考えていた霧花の耳に部屋の備え付けの電話が着信音を響かせた。
「はい、鷹峰です」
『なんだ……やっぱり居るじゃない』
電話口の声は幼く、しかしどこか不穏さを孕んでそう言った。
『伊月摩耶……そこに居るんでしょ? その女は危険だから、私達で引き取る事になったの』
差し出してくれるわよね? 強く、断定的な言葉には威圧的な色が含まれている。まるで相手が自分の言う事を聞くのが当然と言わんばかりの物言いに、霧花は無意識に歯を噛んで眉間に皺を寄せた。
「念のため、聞いておきたいのだけれど」
『なに?』
『そちらはどなた様だったかしら……? 電話に出たなら、まずは名乗るべきでは無いかしら?』
『…………私の素性を聞いて、それでお前の返答に何か変わりでもある? 一般人は黙ってウンウンと頷いてりゃ良いのに?』
絶句。今の霧花はまさにそれだった。誰とも知れない自分の言う事を、相手が聞いて当然と言わんばかりの傲慢さには、霧花も太刀打ちできそうに無かった。
ただ、会話が成り立たない相手である事と、それが摩耶を狙っている事だけは明白だ。それさえ分かれば、やる事は単純だった。
「今日は少し用事があるから、引き渡しは明日で良いかしら?」
『今から行くから、お前はそこで待ってたら良い』
「そう、できるだけ早く来てちょうだい…………私忙しいの」
電話を切る。静寂は一秒も保たない。霧花はすぐに踵を返し、摩耶の眠る寝室の戸を開けた。
◆◆◆
先週末の土曜日。合コン会場である地下の酒場で、私は殺人事件に遭遇する。干からびた遺体には血が一滴も残っておらず、それが歌臼大学近辺で連続して発生している吸血事件であると、警察の人は言っていた。
気味の悪い話だけど、でも、私は変わらなかった。
人が死んだ事はショックだったし、降って湧いた非日常に動揺したり、不謹慎にもワクワクしたり、だけどそれも日を改めれば過去の事。口外してはいけないと言われていたし、何より私は貧血で倒れて病院に運ばれてとバタバタしていて、思い出す暇も、話題に出す機会もなかったからだ。
それで、なんとなく、適当に日々を過ごして、そして………………
「コレは夢だ」
と思った。それは当時、実際に思っていた事でもあるし、もう二度目になる悪夢への率直な感想でもあった。視界が軋み、画面が暗くなっていく、空気は急激に感触を失い、まるでハリボテのような光景の中に怪物が現れる。歪な形をした猫、それが元は人間で、自分が先輩と慕った相手であると私は知っている。
彼女を救う術を私は知らない。ただ、彼女の命が失われる瞬間を、奇跡を祈るような思いで見続ける。誰でも良い、都合の良いヒーローが先輩を助けてくれたら、私はどんなお礼だってするのに。
けれど無情にも、私の身に巣食う魔物の雛は容赦なく、先輩の身体を突き破り、生まれ出る。大きな、中型犬ほどの大きさの蜘蛛。それが吸血事件の犯人、私に取り憑き、私の周囲の人間を襲わせる、寄生型魔物の魔力製の使い魔。
警察の人は、宿主として保護された私にそう教えてくれた。
私はコレから……そうやって周りを不幸にしながら徐々に弱っていき…………
いずれ、あの合コンの日に出会った比嘉という青年のように、干からびて死んでしまうのだ。
気が付けば、私は無数の闇に取り囲まれていた。その闇の一粒一粒が、小さな蜘蛛である事が不思議と理解できた。轟然と押し寄せる闇に、今更のように恐怖が込み上げてくる。
空気が震える。まるで夢のようにあやふやだった肌感覚がリアルに突き刺さる。
「うそ…………いや…………」
身が竦み、動けない私を、闇はそのまま飲み込んでいった。
「イヤアアアアアアアアアアアア!!!!」
ゼンマイ式の時計の回る鳥の人形の音だけが響く静まり返った部屋で、女が悲鳴を上げて飛び起きた。早朝の警察署、刑事課の隣の応接用の小部屋には私と、私に付き合って刑事課で寝泊まりしている担当の刑事さんしか居なかった。
それでも、恐ろしい事に建物の中には無数の気配があり、朝の四時だと言うのにここには夜勤の人間がそれだけ詰めていることを物語っていた。今さっきまで見ていた悪夢の感触が消えない。
私はタオルケットで身を包み、肩を震わす。空調はきいている筈なのに、さっきまで寝ていたソファには熱が残っている筈なのに、肌寒さが消えなかった。
「えっ…………なんで?」
夜が明け、そんな私に担当の大妻さんが告げたのは、無情な配置変更と護送中止の報せだった。
「空いてないもんはしょうがないわな……」
疲れた顔で前髪をかきあげる壮年の男。本人も納得してないのは表情を見れば分かった。それでも、そんな事言われたって、私だって納得いかない。
「じゃあ、私どうなるんですか?」
「家に帰ってもらう事になる。一応警備は続けるが…………今までのようにとはいかない。魔物は管轄外だしな、魔導警察か民間に助力を願うしか無いだろう」
家に帰る……?
冗談じゃない。私が家に帰って、それで何が起きたのか分かっているのに、なんでそんな事が言えるのか分からない!
私は大妻さんのコートにしがみついて懇願する。ここに置いてほしい、もう誰の迷惑にもなりたくない。私の傍に不用意に近付けば、その人も先輩のようになってしまうかもしれないのに。
「魔物の被害の事は勿論考えてる。だけどな、それに関しちゃ俺達にできる事は無いんだ。魔物の細胞を傷付けられるのは、魔力を帯びた攻撃だけで、そんな事ができるのはこの世で魔術師だけなんだからよ」
魔術的な防御を施した専用のシェルターがある。そこに入れれば、それで良い筈だったのに……
「お前さん、魔術師の友達が居たよな? 俺も顔見知りではあるんだが…………あの子に連絡しようか?」
「やめて!!」
思わず悲鳴を上げた。
「霧花は駄目……あの娘は私の一番の友達だから…………だから、あの娘が酷い目に遭うのだけは本当に嫌なの」
想像するだけでも涙が出る。歯が痒くなる。心が軋んだ。私の知る遠城霧花は、どこまでも真っ直ぐで、真っ直ぐ過ぎてたまに面倒臭いけど、とても格好の良い……良い娘で…………
私のせいで霧花にもしもがあったら、私は死んでも死にきれない。
だからそれだけは嫌だった。だったのに…………
◆◆◆
「起きなさい摩耶、急いで…………起きるのよ」
何者かに肩を揺すられ目を覚ますのは、明るい茶髪に青メッシュの女だった。そこは危穂の駅前から十五分、大学近くの雑居ビルの四階、鷹峰空理の借りてる住居スペースの一室だった。窓は二十cm四方の小さなものが一つだけ。白い壁に覆われた、少し窮屈な雰囲気の寝室のベッドは、摩耶の普段の生活レベルからは考えられないような高級品なのか、異様な寝心地の良さだった。
「そうか……私、霧花の家に……」
「起きたわね摩耶。早速で悪いけれど、家を出るわよ」
事情は聞かなかった。昨日のニュースを見れば、自分が一処に留まればどうなるのか、摩耶にも察しが付く。
友人の着替えを借り、急いで家を出た。
警察が頼れない今、二人が向かえる場所は限られていた。警視庁、魔導警察本部、そのどちらも候補ではあったが同時に気取られやすい、相手も張っている可能性の高い場所だった。
であるならば。それは霧花にとっては至極当たり前の選択肢だった。
「もしもし、えぇ私よ……少し事情があって、友達を一人連れて今から帰るわ」
タクシーを待つ霧花は、実家へと繋がった携帯電話を右耳にあて、そう言った。
◆◆◆
神奈川県横浜市山手町は、山手居留地と言い、外国人居留地のあった事で有名な観光スポットであり、教会や古い洋館など、異国情緒漂う閑静な高級住宅街でもある。
その一角に一際大きく敷地を取るのが名にし負う遠城家本邸である。こうして表から見るだけではその広大な敷地の奥に鎮座する屋敷を垣間見ることも敵わないが、その門構えを見るだけで、そこに住むのが只者でない事だけは十分に察せれるものとなっていた。
その周辺に物々しい人員輸送車が乗り付けられ、無数のバリケード、重装備の特殊部隊員が配置に着く。要人警護でも中々見ない厳戒態勢が敷かれている実家に、霧花は呆然とタクシーの窓からその光景を見るしかなかった。危穂からここまで交通渋滞の影響もあり一時間弱、その間に実家の情勢が随分と変わっている事に驚きを隠せない様子で、霧花の間の抜けた顔を隣に座る摩耶は物珍しそうに眺めていた。
「私は家の者です。あの、ここで何が?」
「今朝ネット上でこの場所を襲撃すると言う犯行予告があり、魔導警察警備部が出動しています。失礼ですが、身分を証明するものは?」
タクシーを引き留めた装甲服の男にマイナンバーカードを渡す。
「そちらの方は?」
「友人です」
「申し訳ない、今は屋敷の中に無関係の人間は入れられないんです」
「待って、せめてお父様に話を通して」
「残念ですが、遠城家の当主であっても、我々の警備方針に従ってもらうことになるでしょう。何分非常事態ですので」
口振りこそ申し訳なさそうだが、男の態度は頑なで、どうにも無理は通りそうにない。
とうしたものかと困り果てていると、バリケードの奥の方から何者かが駆け寄ってくるのが見えた。それを指差す霧花に吊られて警備の男も振り返り、そして、やってくる人物の顔を見てげんなりとした表情を見せた。
「ウオオオオオオオオオ!!! キィリカアアアアアアアアアアア!!!」
年齢不詳のスキンヘッドの大男が霧花の名を叫びながら現れる。その暑苦しさ、騒々しさに警備の男は頭を抱えていた。あれは彼にとっては同期にして、世話の焼ける上司。名を遠城斉雅と言い、つまるところは霧花の……
「お兄様!?」
兄だった。




