歌臼大学連続吸血事件 第二十一話
もう何度、あの場所に足を運んだか分からない。子どもの頃は毎日のように、気が付けば嘘のように行かなくなったあの聖堂を、私は今でも夢に見る。
横浜の一等地、遠城家の邸宅の地下には異界迷宮と呼ばれる特殊な空間が広がっていた。まるで西洋の教会のような、荘厳な装飾の大講堂。その奥に、遠城家が代々守り継いできた炎がある。人の呪いをくべて黒く燃え盛る邪悪な炎。十字架の代わりに見上げるように安置されたそこには、私の母が居た。もうずっとそこで、燃え盛る全身の痛みに耐えて、苦悶の声を上げ続けていた。
これは封印だ。と父が言った。魔術の才能のある、しかし家の人間にはできない務めだと。母の事は忘れて、お前はお前にしかできない務めを果たせと。そう言ったきり父はここには来なくなった。
私は思う。
「お母さんは………………何のために生まれてきたんだろう?」
婚姻で家と家を繋ぐため? 優秀な子供を産むため? ああして、生き地獄を味合わされるため?
何となくだけれど、どれも違う気がした。人間がこの世に生まれてきて、その一度きりの人生に意味を見出すとしたら、きっとそんな事ではないと思う。幼い私は、そんな漠然とした違和感に、答えを見つけられないでいた。
嬉々として嫁ぎ先の吟味を語る父や祖父の顔を見れば分かる。いずれ、私も母と同じになる日が来る。自分が何のために生まれたのかも、分からないままに。
◆◆◆
危穂警察署は歌臼大学から駅を挟んで反対側の住宅街の只中にある。ほど近くを川が流れており、土地が低いために、毎年ではないものの定期的に浸水被害を受ける危穂のダウンタウンだ。
時は遡り、十二月四日木曜日。その日大学を午前で終わらせた霧花は、家の事を一通り済ませてから、やたらと多くの警察車両が停めてある危穂警察署に出向いていた。
「すみません、刑事課に用があるんですが」
受付で説明を受けたとおりに階段を上がり、やけに騒がしい警察署の中を歩いていくと目的地が見えてくる。金属製のグレーの扉、いつも片開きになっていて、外から中の様子が見えるようになっている。いつもは騒がしく、極稀に腐敗臭や大麻臭を漂わせる刑事課のフロアは。今日に限っては静まり返っていた。ブツブツ穴の開いた吸音板の白い天井には、少し古ぼけた蛍光灯が並んでおり。普段なら部屋を白く照らし出すそれらも、今は暗く沈黙している。部屋には一人だけ、若い女性の刑事が残っていた。
「遠城さんですね?」
「はい、摩耶はどんな様子ですか?」
「…………」
フリフリと首を振る彼女に霧花は目を伏せた。同居人を失った友人の心情を思うと、どんな顔をすれば良いのか分からなかった。
「きりかじゃん!!」
そんな霧花を呼ぶ、どこか呂律の回らない、けれど聞きなれた声に彼女は振り返った。そこには件の友人、伊月摩耶が立っていた。
「…………んん? どうしたのさ、変な顔して」
ふらりふらりと覚束ない足取りで刑事課に入ってくる摩耶に、霧花は絶句して…………それから頭が痛そうに額を抑えた。
「完全に出来上がってるわね…………」
ふぇ? と首を傾げた摩耶の顔は歌舞伎の赤っ面とまでは行かないが、完全に肌が染まっていた。吐く息の酒臭さに、霧花は顔を顰め、女刑事は困ったように笑っている。
「飲まなきゃやってられないって、担当の刑事が何度も止めたのに…………すみません」
「モリノさーん? なんでー、謝ってんの?」
誰の目から見てもヘベレケな摩耶に大きく溜息を吐いた霧花、摩耶も負けじと酒臭い息を霧花に吹きかける。それを眉一つ動かさず受け止めた霧花は、鞄から取り出した雑誌を丸めて棒にすると、そのまま摩耶の頭頂部に…………
刑事課のフロアに併設されている応接用の一室、そこのやたらと高級なソファに寝かされた女がウーウー唸っていた。あたりには空き缶が転がっており、ここで一晩を明かした彼女がかなりの量を浴びた事が推測できた。
「いつまでもここに置いておく訳にはいきませんから…………すみません」
「いえ、見れば分かります」
謝る森野刑事に霧花は部屋を見回してからそう言った。
「本当なら隔離シェルターに案内したいんですが」
「…………何かあったんですか?」
「あったというか…………ここのところずっとですね、捜査本部が立ってから、もう二月は経ちますから」
東京都全域で発生している、本来は魔術の素養を持たない若者を中心とした魔導犯罪。今年の一月頃から激化した所謂闇バイト案件である。犯人は共通してSNS上での繋がりを持つ何者かからの指示を受けて行動しており、十月の初め頃に東京を拠点とする指定暴力団とのいざこざで初めての死者を出した、今全国的に注目度の高い事件である。
駅を挟んで危穂のこちら側は、大学のある西口に比べると治安が悪く、危穂警察署の拘留施設やシェルターはパンク寸前なのだと刑事は説明する。十五人の被害者を出している連続殺人の犯人が関わっていると分かっていても、摩耶を置いておく場所がないのはそのせいだった。魔術的な防衛策を講じた特殊な隔離シェルターは全国的に見ても数が少なく、今は運悪く逼迫している状態なのだ。そう説明する森野の顔も、疲れからか血色が悪いように見えた。
「でも、ご友人が遠城家の御令嬢というから助かりました。下手なセキュリティより万全です」
「車ももってない身で、護送まで任される事になるとは思わなかったですが……」
「…………私用車で良ければ」
「いえ、歩いて帰らせます」
ソファで眠る摩耶の顔に上着を投げつけると、白いブラウスの袖をまくった。この部屋の掃除にそう時間はかからないだろうが、それでも少し時間を置けば、摩耶も少し歩くぐらいならできるようになるだろうという判断だった。
「んだぁ? 空理のカミさんじゃねえか」
そんな無駄にダンディな声が掛かったのは、部屋の掃除に一段落が付いた頃だった。見れば、部屋の入り口から、トレンチコートのベテラン刑事、大妻誠司が顔を覗かせていた。
「まだ結婚はしてません」
「夫婦揃って同じ事言うんだな」
ガハハと軽く笑って部屋に入ってきた誠司は、部屋の臭気に眉を顰め、ソファでダウンしている飲んだくれを見て得心がいったように頷いた。
「伊月摩耶は嬢ちゃんが引き取る事になったのか……」
白髪混じりの頭を掻いて男は謝罪する。
「悪いな、最後まで面倒見てやれなくて」
「大妻さんは、例の闇バイトの方に回ったんですか?」
「あぁ……ここだけじゃねえ、所轄も本庁も対応に追われてる。元々、他の事件にさける人員は限られてたんだ。宿主が見つかった吸血事件に、何人も刑事が付いてるわけにもいかないんだな現状」
「………………」
「なんて言っても納得できねえよな」
「えぇ、まぁ」
友人の命が掛かってる。厄介な海外の工作員に狙われていると言う話もある。人員の削減に言いたい事なら幾らでもあった。
涼しげな顔でその不満を顕にする彼女に、ベテラン刑事は冷や汗を流して苦笑いした。
「まとめたゴミの処分はお任せしても良いですか?」
「あ、あぁ……多分な、担当は…………」
「森野さんならトイレに立ちました」
「あぁそうか……」
誠司は少しの間、霧花の持つゴミ袋と廊下とで視線を往復させ、諦めたようにゴミ袋を持った。
「仕方ねえ、俺が出しとくかぁ」
軽く頭を下げる霧花に軽く笑い掛けて刑事は立ち去っていく。色々と忙しい時期だと言うのに、美人に頼られると断れない己の下心に心底後悔しながら歩いて……
「あっと」
戻ってきた。
「伝え忘れてた……一昨日の現場近くの警察署から連絡があった。今日の昼頃、お宅らの大学に怪しげな外国人の二人組が現れたそうだ」
◆◆◆
柔らかく甘いパンに、茹でた卵をマヨネーズで掻き混ぜたものをサンドした、通称たまごサンド。日本に来たなら一度は食べるべきと言われるそれを雑に頬張った女が、鋭い視線で宙を睨んだ。
「遅い」
幼いながら、ダウナーな響きの声が、歩道脇のベンチから発せられる。視線の先には街路樹があり、その枝の一つに白い鳩が留まっていた。
「そう言うんだったら使い魔の操作はアナタがすれば良かったじゃありませんか。ワタシは生物は専門外なんですから」
丁度通りがかった営業マンらしき中年の男がギョッとした顔で振り返る。耳を疑う。その白い鳩は流暢な日本語で不平を漏らすのだ。
「うるさい、こういうのは後輩がするものなの」
「ハァ......大学で聞き込みして、家は突き止めましたが、今は空けているようです」
「一緒に保護されたって魔術師の女の方は?」
「今朝は大学に来てたらしいですが、家には帰ってないようですね…………同居している男は一昨日の夜から帰ってないみたいで」
まるで成果のない報告に軽く笑った女、セリーナ・クランツはベンチから立ち上がって、レジ袋に入った諸々を正面のコンビニのゴミ箱に押し込む。
「アムスベルク…………合流よ」
「何をする気ですか?」
その問いに片目を閉じる。新しく送り付けた使い魔も撃墜されたらしい事を把握し、獰猛に笑う。
「大学近くの警察署に動きは無いけど、危穂警察署に送った使い魔が攻撃されてるわ…………どうやら魔術的な防御が敷かれてるみたいね」
「我々に探られて痛い腹があると?」
「それを確かめに行くのよ」
「穏便に済みますかね?」
「それはこの国の警察の態度次第よ…………黙って言う事を聞くのなら何もしないわよ、黙って言う事を聞くのならね」
重い溜め息を吐く鳩を尻目に女は歩いて駅に向かう。集合場所は危穂の駅前、ここから電車移動込みで二十分は掛かる場所だった。
時刻は午後の三時三十七分、丁度警察署を出た霧花達が家へと帰り着く五分ほど前の事だった。
◆◆◆
深い色合いの落ち着いた木目調のテーブル。その上に湯気を上げる皿が二つ並んでいた。そこに女が二三皿を追加していく。サラダ、スープ、そしてメインのオムライスにかけるデミグラスソースと食卓が豪華になっていくのを、もう一人の女が満足気に眺めていた。
「本当、霧花って料理上手よね」
「そんな事無いわ、ネットのレシピに書いてあるとおりに作っただけだもの」
謙遜する霧花に摩耶はイヤイヤと頭を振って否定する。レシピの通りに作れるのも料理の腕のうちである。とは言え、霧花の頭には料理上手と言われ思い浮かぶものがあった。
九頭竜島で毎日料理を作ってくれた影島美優に比べれば、自分はまだまだだと感じるのだ。空理にコレを食べさせ、あの料理と比べられるとなると、霧花はたまらない気持ちになる。
そんな彼女を不思議そうに眺めてから、まぁ良いかと肩を竦めた摩耶は、そのまま手を合わせて「いただきます」と呟いた。
美味しそうに料理を食べ出す友人を尻目に、霧花はテレビを眺めていた。夕方のニュース番組で、深刻な顔をしたキャスターが喋り出す。
『本日夕方、東京都危穂区危穂駅前の危穂警察署がD.M.C、形而上資産保全総局を名乗る二人組の襲撃を受けました。一般人警察関係者含め数人の重傷者が出たとの報告ですが、詳しい事はまだ分かっていきません────』
つい数時間前まで自分が居た場所への襲撃に、思わず摩耶も食器を置いて振り返る。彼女を狙う魔の手は、確実に近付いてきていた。




