歌臼大学連続吸血事件 第十九話
都会中の喧騒に、重い溜息が紛れて消える。どれだけ疲れていても帰り道は歩かなければならない。
家を出て空理の家に来た事でできた、数少ない難点だった。
雑居ビルのエレベーターに入り、扉が閉まった瞬間に、女──遠城霧花は整えた髪をボサボサにしてしまう。警察の事情聴取や、友人の付き添い、色々と気疲れする出来事はあったが、何よりも友人の窮状が霧花の神経を削る。
どうすれば良い?
どうすれば彼女を傷付けずにこの事件を解決できる?
そんな自問に、彼女は黙って歯を食いしばるしか無かった。
「はぁ………………」
悩んでも仕方がない。ここは、こと推理に関しては頼りになる婚約者に相談するべきだろう。彼だって、この事件の情報は少しでも欲しい筈なのだし。腑抜けた顔を、両頬を叩いて引き締めた霧花は、エレベーターを降りて部屋へと向かう。しかし、そこには空理の姿は無かった。代わりにあったのは、テーブルの上の置手紙。
『しばらく家を空けるので、トラオたちの世話を頼みます。追伸:摩耶ちゃんだけど、宿主は多分あの娘だから、霧花さんが守ってあげてください。お土産買って帰ります。』
霧花はその手紙を能面のような表情で眺めた後。
「助言が遅い!!」
そう叫んで手紙を放り投げた。ハラリハラリと宙を舞った紙切れは、そのままリビングの隅のゴミ箱へと吸い込まれていった。
◆◆◆
鷹峰本家の敷地内には、複数の分家の屋敷が存在する。本家の屋敷に近ければ近いほど、一族の中での地位は高く、遠ければ遠いほど、地位の低い家の屋敷という事になる。
「………………」
本家から遠く離れたある屋敷の庭の片隅には、こじんまりとした墓がある。ヨモギという名前の、白い犬の墓だ。その前で手を合わせた俺は、暫く彼との再会を静かに過ごした。烏丸の親父さん達は、少し冷や汗を流しながら、俺の来訪を快く受け入れてくれた。秘伝を記した魔導書の貸し出しには多少渋られたが、根気強く頼みこみ、この家の敷地内でなら読んでも良い事になった。
俺の見立てはドンピシャだった。この家の秘伝には、影法師への対処法もあり、ありがたい事に、これは俺でも使えそうだった。
「それじゃ、また明日来ます」
「いつでも歓迎しますよ」
流石に泊まる訳にはいかないと、夕食前には烏丸の屋敷を出た。既に藍色になった空を眺めながら歩いて帰る。事件解決への手ごたえに、俺の足取りは軽い。
後は、どれだけ早く東京に帰れるか……
DMCの動向が読めない以上は、一刻だって待ってられないのだから。
「おかえり」
門の前にポツンと立って待っていた紗実に手を振ると、彼女は笑って大きく手を振り返してくる。そして、穏やかな声で俺を出迎えた。
「暇なのか?」
「そんな訳ないよ。これでも空理の次に強いって評判なんだから」
「お前がか?」
驚いて、隣を歩く紗実の横顔を見た。意外な事を言う彼女の声には、誇るようなニュアンスは無かった。ただ、空虚に響くばかりで、俺にはそれが本気で言って事なのか、冗談なのかが分からなかった。
高校進学のためにこの家を出たのが今から十二年前、その頃の紗実は弱くはないが傑出した術師という事も無かったと記憶している。
「冗談だろ……?」
悩んだ割に軽はずみな声が出た。頭では色々と考えるが、心の何処かでは「そんな訳ない」と侮る気持ちがあったのだろうと思う。
そして、そんな俺の言葉を紗実は否定しなかった。ただ、どこか困ったように微笑うだけだった。
紗実の案内で広間に通された俺は、そこで出迎える一族の重鎮達の姿に溜息を吐いた。昨夜はできなかった俺の歓迎を、今しようと言うらしい。そこには豪華な膳が並び、既に酒が入っているのか、年寄りの呂律の回らない大声が耳に響く。
「来たな空理」
少し古びた香ばしい畳張り。その奥の床の間の前に座布団が二つ並んでいる。その片割れに座った父が盃を片手に俺を呼んでいた。そこに座れという事だろう。上座というのは当然出入り口から遠くに置かれるもので、それが居心地の良い場なら良いが、家の連中に閉じ込められているみたいで、俺には嬉しくない席だった。
「そういう顔はよせ。皆、お前を歓迎しているのだからな」
「…………酒は飲まないぞ。連中の顔を見ながら飲んでも、不味いだけだ」
目の前には膳がある。俺はこの家に帰ってきてから、一度も厩舎に足を運んでいない。だから、相変わらずの精進料理が盛りつけられてある。本物の精進料理と違うのは、そこに酒が添えられているという部分か。それも今言ったように、飲む気は無いが。
それから、程なくして宴が始まる。各家の器量良しが呼び出され、舞いや楽器を披露したり。何人かのお調子者が席を立ち、芸を披露する。そんな退屈な宴だ。俺は膳の上の料理を平らげると、暫くそれらに付き合って、けれど早々に席を立った。当然、この宴の主役は俺なのだから引き留められたが。
「飲み過ぎて気分が悪いんだよ」
なんて丸出しの嘘に異論を唱える者は居なかった。そもそも、あの盛られた酒に俺が口を付けない以上は、この宴を開いた意味もない。奴等はそう判断したのだろう。あぁ、嘘なんて言ったが、気分が悪いというのは本当か……
…………本当に気分が悪い。
◆◆◆
部屋は綺麗に片付けられていた。あれだけ鼻についた血の臭いもなく、壁に空いた穴は修復されていた。仕事が早いのは良いが、早すぎて気味が悪いほどだった。風呂上りの火照った体を冷やそうと、部屋の窓を開ける。冬の夜気は流石に冷たく、数秒で後悔し始めたが殊の外美しい月を見上げて、暫くそのままにしてようかと思い直す。あと数日で満月だろう丸い月は、天高く白く冷めきっていて、見ているだけで落ち着けた。
「空理?」
部屋と廊下を隔てる障子から、紗実の声が聞こえた。俺はそのまま窓を閉めて、部屋を横切り、障子を開けた。そこには、いつもの寝巻に身を包んだ妹の姿があった。両手に盆を持ち、その上にはお猪口と徳利。
「……なにか用か?」
用件は明白だったが、一応訊ねた俺に彼女は緊張したように笑って。
「どう? 一献」
悩む理由は無かった。紗実はこの家では唯一気を許せる相手だ。子供の頃からいつも一緒に居た女の子。優しくて、弱くて、無害。あの気色の悪い宴席を忘れて飲み直すというなら、これ以上の相手はこの家に居ない。
「つまみは無いのか?」
「昔みたいに盗みに入る?」
そんな軽口にやめておこうと返して彼女を招き入れる。部屋の北側には窓があり、そこから月に照らされた中庭が見える。点在する灯篭には灯が点っており……俺はその景色を楽しむために部屋の明かりを消した。盆をそのまま地面に置き、窓際で紗実と向かい合って座る。彼女は足を揃えて、俺は足を開いて胡坐だった。
「うん、美味しい」
「こうしてお前と飲むのは何気に初めてか?」
「そうだね、空理は飲める年齢になってからは家に寄り付かなかったし、私はここから任務以外で出られなかったから」
そうか、コイツはずっとこの家に居たのか。俺と同い年だからもう二十七だろうに…………ん?
「家から出た事無かったのか?」
「へ? ……いや、総領会の仕事でちょくちょく遠征には出てるけど」
「そうじゃない、お前二十七だろ? 結婚してないのか?」
いや、そもそも、そんな年齢の女が家に残っているというだけで変なのだ。何故気付かなかった。
「婚約話はあったよ当然。でも、しょうがないよ」
そう言って、紗実は右眼の眼帯に手を這わす。
「………………」
知らず、お猪口を握る手に力が入る。それが彼女が未だにこの家に居る理由だと言うのなら、心底から下らない話だ。命がけで戦っているのだ。魔術の名家なら、これぐらいよくある事だと理解できている筈では無いのか。
「気にするな。魔術の家に輿入れしたって幸せになれる訳じゃない」
「……………………そう、だね」
酒を煽る。不味い。不味い酒だ。
「そっちはどう? 婚約者とは上手くやれてる? えっと、遠城……」
「霧花……霧花さん。………………どうせ、俺も結婚する気はないけどな」
杯を持った右手を窓に向けて翳す。少し揺れた酒の水面が、中庭の景色を映し出す。そこに、霧花さんの姿が浮かんだような気がした。彼女と上手くやれているか? その問いに俺は、自分でも分かるくらい露骨に話を逸らした。分からない。上手くやれているのか、そもそも、俺は彼女と上手くやる気があるのだろうか?
無い……のだろうか? 少し前なら断言できた筈が、今は分からなくなっている。
「あーあ、空理もそっち側か、なんで魔術の家の女ってこうなんだろう」
「なんでだよ。結婚しないって意味なら、仲間だろむしろ」
それから、俺と紗実は軽く近況を語り合った。最近どんな魔物と戦ったか、どんな魔術を使えるようになったか、そんな色気のない話を小一時間。それが、馬鹿みたいに楽しくて、酔いが回っていくのが分かる。
「……悪かったな付き合わせて」
話が尽きて、少しの沈黙が場を支配して、そしてポツリと、言うつもりの無かった言葉が零れ出た。
「最悪の気分だったんだ、おかげで気晴らしになった」
「謝んないでよ。私が……空理と話したかったんだから」
盆の底が床を擦る音がする。紗実が俺との間に置いてあったそれをどかした音だとすぐに察しが付いた。真っすぐと俺の目を見つめてくる隻眼から、目が離せない。上気した頬は、酒のためか、あるいはもっと他の理由があったのか。
分からない、酒の回った俺の頭では何も。彼女の伸ばした右手を、咄嗟に払いのけようとする。金属製の右手が、彼女の右手に触れると。そのまま、絡めとるように手を握られる。
「つめたい……」
手の甲の金属板をそっと自らの頬に触れさせて、女は穏やかに呟いた。俺の義手は、そんな彼女の火照った頬の熱を、教えてはくれなかった。
思考が麻痺している。何が起きているのか理解できない。きっと、この右腕が生身だったとしても、俺は彼女の感触を理解できなかったに違いない。
そのまま紗実は体を回し、俺の胸に背中を預ける。まるで、アベックの女が男の膝に乗って甘えるような姿勢だ。左肩に重力を感じる。頭がそこにもたれ掛かっていた。目と鼻の先に女の顔がある。
この姿勢はなんだ。何の意味がある? そう聞くより先に、紗実が口を開いた。
「結婚する気がないって……本当?」
その問いに、俺は答える事が出来なかった。彼女の振る舞いは蠱惑的で恐ろしく、俺が実の兄である事を忘れているのでは無いかと錯覚する程だった。
右腕は豊かな胸に包み込まれ、全く動かない。気が付けば俺は、不覚にも妹に拘束されていた。
「………………っ」
紗実が目を閉じた。理解が追い付かない。俺は、情けないぐらいにされるがままに、その柔らかな唇を受け入れた。
総毛立つ。背筋を悪寒が駆け巡る。妹とキスをした。その事実に対する嫌悪感は勿論あった。
だが…………
それ以上に、酔いの醒めるような激烈な殺意が俺の首元に突き刺さる。
何がどうなっているのか、頭で理解するよりも先に、部屋に突き飛ばされた女の肢体が転がる音がした。部屋の窓から差し込む月明かりが、ギラリとした殺意を照らし出す。
倒れ伏す紗実の左手には小太刀が握られていた。唇を合わせている瞬間は酷く視界が制限されていて、加えて男側が油断しやすいシチュエーション。女が男を不意打ちで殺すには絶好の条件。あと一秒でも反応が遅れていたら、あの切っ先が俺の喉を切り裂き、死に至らしめていただろう事は明白だった。




