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なほこ

「樹(いつき)くん……樹(いつき)くん……」


そう懐(なつ)かしい呼(よ)び声(ごえ)が聞(き)こえる。


樹(いつき)が振(ふ)り返(かえ)るとたしかにそこには菜穂子(なほこ)が居(い)た。


どこからどう見(み)ても本物(ほんもの)である。


「菜穂子(なほこ)!! 菜穂子(なほこ)!! 早(はや)くこんなとこから逃(に)げよう!! 今(いま)、助(たす)けを呼(よ)ぶから!!」


だが、少女(しょうじょ)は悲(かな)しげな顔(かお)をした。


「残念(ざんねん)だけど……私(わたし)はもうここから離(はな)れられないんだ。だから、樹(いつき)くんだけでも逃(に)げて……」


それでも樹(いつき)は必死(ひっし)に説得(せっとく)した。


「″離(はな)れられない″ってどういうことなんだよ!? バカなこといってないで!! ほら!!」


少年(しょうねん)は強(つよ)く少女(しょうじょ)の手(て)を引(ひ)いた。


「ッ!!」


思(おも)わず樹(いつき)はその手(て)をはねのけてしまった。


それは生(い)き物(もの)の体温(たいおん)ではなかったからだ。


「わかった? それでいいんだよ。私(わたし)を置(お)いて逃(に)げて」


それでも樹(いつき)は食(く)い下(さ)がらなかった。


「そんなのどうだっていい!! 後(あと)のことは後(あと)で考(かんが)えればいいじゃないか!! さぁ、ここから出(で)よう!!」


すると、菜穂子(なほこ)は微笑(ほほえ)んだ。


「あ、あはは。こんな身体(からだ)になっちゃっても想(おも)ってくれる人(ひと)が居(い)るなんて、私(わたし)、幸(しあわ)せ者(もの)だね……」


手応(てごた)えがあって樹(いつき)の顔色(かおいろ)が明(あか)るくなった時(とき)だった。


「でもね……だからこそ、逃(に)げてほしいんだ。私(わたし)は……もう……」


いつの間(ま)にか菜穂子(なほこ)は日本刀(にほんとう)を出(て)にしていた。


樹(いつき)の″悦(えつ)″の対(つい)になるような漆黒(しっこく)の鞘(さや)を抜(ぬ)いた。


そしてそれを闇(やみ)の向(む)こうに投(な)げ捨(す)てた。


不退転(ふたいてん)だった。


そして少女(しょうじょ)は恐(おそ)ろしい速(はや)さで得物(えもの)を振(ふ)り下(お)ろしてきた。


鍔迫(つばぜ)り合(あ)いの形(かたち)で向(む)き合う。


「私(わたし)、嬉(うれ)しかったんだよ。樹(いつき)くんがここまで来(き)てくれて」


セリフと行動(こうどう)のアンバランスさが凄(すさ)まじい不気味(ぶきみ)さを生(う)む。


激(はげ)しい打(う)ち合(あ)いが始(はじ)まった。


菜穂子(なほこ)のほうが非力(ひりき)なはずなのだが、全(まった)く打(う)ち負(ま)ける様子(ようす)がない。


相手(あいて)の刀(かたな)もただの日本刀(にほんとう)ではない。


この期(ご)に及(およ)んで樹(いつき)は彼女(かのじょ)の身体(からだ)を傷(きず)つけたくないと戸惑(とまど)っていた。


しかし、剣戟(けんげき)は激(はげ)しくそんな余裕(よゆう)はなかった。


それに手(て)を抜(ぬ)けばバッサリとやられる。


一瞬(いっしゅん)の油断(ゆだん)が樹(いつき)の頬(ほほ)をかすめ、血(ち)が滲(にじ)んだ。


「やめて……樹(いつき)くん……死(し)んじゃうよ……」


続(つづ)けて斬撃(ざんげき)が続(つづ)く。


「樹(いつき)くん……やめてよ。手加減(てかげん)なんかしたら死(し)んじゃうよ。やめてよ……」


少女(しょうじょ)は心(こころ)から悲(かな)しんでいるようだ。


それが更(さら)に樹(いつき)の心(こころ)をかき乱(みだ)す。


相手(あいて)の突(つ)きを避(よ)けきれずに右肩(みぎかた)にザクリと深手(ふかで)を追(お)ってしまった。


がくっと悦(えつ)を握(にぎ)る力(ちから)が落(お)ちる。


このまま打(う)ち合(あ)っていたら刀(かたな)を弾(はじ)き飛(と)ばされてしまうだろう。


咄嗟(とっさ)の判断(はんだん)で少年(しょうねん)は腰(こし)のベルトを抜(ぬ)き取(と)り、手をグルグル巻(ま)きにした。


無理(むり)やりベルトで手(て)をガッチリ固定(こてい)したのだ。


突(つ)っ込(こ)んできた菜穂子(なほこ)の薙(なぎ)を受(う)ける。


「わからないよ。私(わたし)、かなしいよ。こんなことしたくないよ……」


嘆(なげ)きとは裏腹(うらはら)に攻撃(こうげき)は苛烈(かれつ)を極(きわ)めた。


その時(とき)、肩(かた)の傷(きず)から流(なが)れ出(で)た血(ち)を悦(えつ)が吸(す)った。


生(い)き血(ち)を吸(す)った日本刀(にほんとう)はまるで水(みず)を得(え)た魚(さかな)のようで、菜穂子(なほこ)の刀(かたな)を押(お)し始(はじ)めた。


「ギィン!!」


今度(こんど)の鍔迫(つばぜ)り合(あ)いでは樹(いつき)が有利(ゆうり)だ。


不利(ふり)とわかるや、少女(しょうじょ)はバク転(てん)して一斬(ひとき)りを回避(かいひ)した。


そのまま樹(いつき)の刀(かたな)の上(うえ)に立(た)つと首(くび)を刈(か)るように突進(とっしん)してきた。


樹(いつき)は頭(あたま)を傾(かたむ)けてそれをかわす。


耳(みみ)を持(も)っていかれるすんでのところだった。


今度(こんど)は少年(しょうねん)がジャンプしながら刀(かたな)の柄(つか)で菜穂子(なほこ)のみずおちを突(つ)き上(あ)げた。


「かはあっ!! 痛(いた)い……いたいよぉ……」


動(うご)きが鈍(にぶ)ったのでまたもや樹(いつき)は声(こえ)をかけた。


「やめよう!! 菜穂子(なほこ)!!もうこんなことはやめるんだ!! 俺達(おれたち)が殺(ころ)し合(あ)う必要(ひつよう)なんてないじゃないか!! さぁ、刀(かたな)を置(お)くんだ!!」


だが、彼女(かのじょ)はヨロリと立(た)ち上(あ)がった。


刀(かたな)を両手(りょうて)に握(にぎ)って内股(うちまた)でガタガタと震(ふる)えている。


「か、かたながね……手(て)から、離(はな)れないんだ……」


望(のぞ)んで戦(たたか)っていると言(い)うよりは洗脳(せんのう)に近(ちか)いようだった。


「い、嫌(いや)だよう。こんなの、死(し)にたくない。死(し)にたくないよぉ。樹(いつき)くん、助(たす)けてよ。助(たす)けて」


しかし、少女(しょうじょ)の手(て)にはガッチリ刀(かたな)が握(にぎ)られていた。


「なんとかあの刀(かたな)を弾(はじ)き飛(と)ばさないと……」


そうこう考(かんが)えているうちにまたもや菜穂子(なほこ)が斬(き)りかかってきた。


少女(しょうじょ)を傷(きず)つけないように戦(たたか)っているため、樹(いつき)はどうしても不利(ふり)な立(た)ち回(まわ)りになる。


出血(しゅっけつ)も酷(ひど)く、頭(あたま)がクラクラしてきた。


まともな打(う)ち合(あ)いはもうあと数回(すうかい)しか出来(でき)ない。


「いつきくん……お願(ねが)い。苦(くる)しいよ。助(たす)けて……」


少女(しょうじょ)は小刻(こきざ)みに揺(ゆ)れだした。


「た、た助(たす)けて。助(たす)けて助(たす)けて助(たす)けて助(たす)けてたすけてたすけて、たすけたすけてたすけて、たすけたすけてたすけて、たすけたすけてたすけて、たすけて」


菜穂子(なほこ)は確実(かくじつ)に″壊(こわ)れ″始(はじ)めて″いた。


これ以上(いじょう)、彼女(かのじょ)を見(み)るに耐(た)えなくなった。


樹(いつき)は意(い)を決(けっ)した。


「まってろ菜穂子(なほこ)、今(いま)、楽(らく)にしてやるからな!!」


「に、逃(に)げて逃(に)げ逃(に)げ逃(に)げて逃(に)げて逃(に)げてにげてにけてにげてにげてにげてにけてにげてにげて」にげてにけてにげてにげて」


その時(とき)だった。


(プツン!!)


樹(いつき)は誰(だれ)かに脳侵(はっく)した。


それは今までにない違和感があった。


「これは……俺(おれ)か? 俺(おれ)が自分自身(じぶんじしん)に脳侵(はっく)しているのか!?」


樹(いつき)は戸惑(とまど)いが隠(かく)せなかった


奇妙(きみょう)な感覚(かんかく)に囚(とら)われているのだから仕方(しかた)がない。


「樹(いつき)くん……いつきくん……」


目(め)にも止(と)まらぬ早(はや)さで菜穂子(なほこ)が背後(はいご)に回(まわ)り込(こ)んできていた。


次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)、樹(いつき)は背中(せなか)からバラバラに切(き)り刻(きざ)まれて、細(こま)かな肉塊(にくかい)に成(な)り果(は)ててしまった。


(プツン!!)


これは自分(じぶん)に対(たい)する切迫危機(くりてぃかる)だった。


もはやそれは自分(じぶん)の未来予知(みらいよち)だった。


樹(いつき)は振(ふ)り向(む)きざまに刀(かたな)で少女(しょうじょ)の斬撃(ざんげき)を受(う)けた。


すると菜穂子(なほこ)の温(あたた)かい心(こころ)が少年(しょうねん)にふれた。


(ごめんね。最期(さいご)までいつきくんを苦(くる)しめちゃって……)


「俺(おれ)こそ……お前(まえ)を救(すく)うことが……できないみたいだ」


ガクリと樹(いつき)はうなだれた。


(でもね、私(わたし)は助(たす)からなくても樹(いつき)くんは助(たす)かるよ。いや、助(たす)かって。それが私(わたし)に残(のこ)された望(のぞ)みだから)


硬(かた)さのあった少女(しょうじょ)の心(こころ)は和(やわ)らいでいつしか″あの頃(ころ)″に戻(もど)っていた。


「なぁ、本当(ほんとう)に一緒(いっしょ)に帰(かえ)ることは出来(でき)ないのか?」


菜穂子(なほこ)はさみしげな表情(ひょうじょう)をした。


そしてポロポロと涙(なみだ)をこぼし始(はじ)めた。


(無理(むり)だよ……。だって、私(わたし)、もう死(し)んじゃってるんだもの。死人(しにん)が蘇(よみがえ)らないのはわかるでしょう?)


樹(いつき)はそれを聞(き)いて黙(だま)りこくってしまった。


(さあ。お別(わか)れの時間(じかん)だよ。仮初(かりそめ)の命(いのち)を繋(つな)ぐこの刀(かたな)で、心臓(しんぞう)を貫(つらぬ)けば私(わたし)は終(お)わり。こうやって最期(さいご)に話(はな)せて本当(ほんとう)に幸(しあわ)せだったよ。樹(いつき)くんも幸(しあわ)せになるんだぞ……)


そう言(い)うと死人(しにん)は迷(まよ)うこと無(な)く自分(じぶん)の心臓(しんぞう)めがけて刀(かたな)を突(つ)き刺(さ)した。


「菜穂子(なほこ)!? やめろ菜穂子(なほこ)ーーーーッッッ!!」


そして少女(しょうじょ)は倒(たお)れ込(こ)んだ。


身体(からだ)は(つめ)たいのに夥(おびただ)しい量(りょう)の血(ち)が流れる。


少年(しょうねん)が駆(か)け寄(よ)って半身(はんしん)を抱(だ)き寄(よ)せると、菜穂子(なほこ)は幸(しあわ)せそうな顔(かお)で笑(わら)っていた。


「せっかく再会(さいかい)できたのに……こんなの、こんなのってありかよおおおおおおぉぉぉぉッッッ!!!!」


少年(しょうねん)の慟哭(どうこく)が八重(やえ)の摩天楼(まてんろう)にこだました。


樹(いつき)はそっと菜穂子(なほこ)を横(よこ)たえた。


すると菜穂子(なほこ)は赤(あか)いゲルのようになると空気(くうき)に溶(と)け、風(かぜ)に流(なが)されていった。


今度は背後(はいご)から下駄(げた)の音(おと)が聞(き)こえてきていた。


少年(しょうねん)は無表情(むひょうじょう)で振(ふ)り向(む)いた。

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