第4話:その場所へ、あのサインで
時速320キロメートル。
大気が物理的な壁となってクリムゾンレッドの深紅のボディを押し潰そうとする中、ハルの視界は前方の漆黒のZだけに釘付けになっていた。
「ハァ……ハァ……ッ」
コックピットに満ちる、張り詰めた過給圧の緊張感と、ハル自身の荒い呼吸。
ハルは確信していた。前を走るあの黒い機体は、ただ闇雲に逃げているのではない。アクセルペダルを床まで踏み抜くハルを、あえて突き放しすぎず、かといって並ばせもしない絶妙な距離感で、明確な意志を持って「誘導」している。
近づくにつれて、周囲の景色に見覚えが込み上げてくる。
東扇島を抜け、夜の闇の先で大きな口を開けて待つ、長く冷たい海底へと続く道。
「川崎航路トンネル……!」
そこは、あの雨の午前0時、零のシルバーホークがGT-R軍団に追い詰められ、コンクリートの壁に激突した――彼女の命が絶たれた、まさにその場所だった。
ハルの背筋に冷たい戦慄が走る。
なぜあいつは、俺をあの場所に連れていこうとする?
あれは俺にとって、世界が反転した絶望の原点だ。悪夢の記憶が蘇り、ハルが思わずアクセルを踏む足に力を込め直した、その時だった。
前方を滑る漆黒のZの、アクア色の冷光に満ちたリアウインドウ。
そのフルスモークの向こう側から、うっすらと照らされたドライバーの左手が、サイドウインドウの枠を越えてハルの視界に飛び込んできた。
白い、細い指先。
それが、ハルのクリムゾンレッドに向けて、小さく二度、手招きをするように動いた。
「っ……!? うそ、だろ……」
ハルは驚愕のあまり、一瞬呼吸を忘れた。
それは、かつて二人でこの湾岸を、言葉を交わさずに並走していた頃。ハルが少しでも遅れたり、弱気になったりした時に、隣の車線から零がいつも悪戯っぽく微笑みながら送ってきた、二人だけの『合図』だった。
「お前……本当に、零なのか……!?」
生きていたのか。それとも、あの場所で俺を待っているというのか。
どんなモラルも法律も届かない、時速320キロの世界。その断罪のハイウェイの終着点で、亡霊が俺を迎えにきたというなら、それでも構わない。
漆黒のZは、ハルへサインを送り終えると、まるで吸い込まれるように川崎航路トンネルの漆黒の入り口へと突入していった。
「行くぞ、クリムゾンレッド……! 俺たちの聖域を取り戻すんだ!」
ハルは叫び、ギヤを叩き込む。
3連ウェーバーが咆哮を上げ、ツインターボが夜の空気を限界まで圧縮する。深紅の魔物は、最愛の影を追いかけて、すべての始まりであり終わりの場所――トンネルの闇の中へと、猛然と飛び込んでいった。
(第4話 了)




