快楽に溺れし者
残酷な表現が出てきます。ご注意ください。
ツンダークには多くの人が訪れ、様々なドラマが繰り広げられた。
だけど、その全てが異世界もの小説の定番のように進んだわけではないし、王道展開だったわけではない。むしろ千差万別であり、クエスト?なにそれおいしいの?のような個性的すぎる旅を繰り広げた者もいた。
今回の主人公は、快楽主義者の女である。
◆ ◆ ◆
秦野紀子、もちろん仮称。
バブル世代の女であり、いわゆるキャリア組のひとりだった。
ただ、経済的な豊かさとは裏腹に彼女の私生活は寂しいものだった。もともと少なかった友人たちとも疎遠になり、両親も既になく。たったひとりの弟が音信不通になってしまって、独身であった彼女はとうとう、ひとりぼっちになってしまった。
このまま自分は、たったひとりで老いてしまうのだろうか?
年老いて、申し訳のように地域の老人の集まりに参加する自分を想像する……どう考えても浮いていそうだった。
彼女はマイペースを信条として生きてきたようなところがあり、和気あいあいと他人に合わせるのが本来苦手なのだった。仕事上の事なら頭を切り替えられるのだけど、私生活で家族や愛しい相手ならともかく、赤の他人にそれをやりたいとは思えなかった。
それなら、結婚とは言わずとも男友達でも作っておけばよかったのに。
友達というのは、ある年代を越えると非常に作りにくくなるものだ。若いころの友達は一生ものだとよく大人は若者に言うのだけど、これは本当に切実な意味があるのだ。自分の社会的立場を意識する世代になると、どうしても損得抜きの友達は作りにくい。そして、友達として本当に仲良くなれるのは、その損得抜きの関係なのだから。
さて、どうしたものか。
悩んでいた紀子はある時、ふと、とあるネットの記事でツンダークというゲームの事を知る。あまりにもリアルなためセラピー用途にも使われている事について書かれている記事だったが、
「たかがゲームよね……でも、社会的立場関係なく人と話せるのは面白いかも」
紀子は、ツンダークの持つソーシャルな意味の方に着目したようだった。
実際、いわゆるソーシャル系と言われる大規模MMOでは、VRとつく前の簡素なものでもその傾向があった。つまり、リアルの社会的立場を越えて仲間になり、友達になれるという事だ。
現実と見分けがつかないほどのリアルな仮想世界で、しかもリアルの立場を無視して人と会える……。
やってみようと紀子が決断するのに、そう長い時間はかからなかった。
届いたVRMMOシステムの大きさにちょっと後悔したものの、そこはキャリア組。失敗だったらその時の事ねと腹を決め、さっさとセットアップに入った。
既にツンダークは正式公開され、数年が過ぎていた。ゆえにゲーマーにはおなじみの、しかし紀子的には珍しいセットアップ画面が動き出し、そして彼女は驚く事になった。
やたらと豪華な、まるで王侯貴族がいるような建物のメインホールに突然、立たされていたからだ。
「……これは」
床に敷き詰められた絨毯。その高級感溢れる感触すらリアルなもの。
静まり返った空気やら、微かに感じる暖かい風や。
「リアルって聞いてたけど……リアルすぎない?」
これではまるで、昔あった仮想世界の映画のようだ。現実とまったく区別がつかない。
内心、ヒヤリとするものを感じたのだけど、
「いらっしゃいませ、フィーピー様」
「は?フィ……なんですって?」
「フィーピー様です。貴女のお名前です」
ふりむくと、ロマンスグレイの渋い執事が、まるで絵に描いたような執事スタイルでお辞儀をしていた。
「あなたは?」
「貴女様の案内役をさせていただきます、執事でございます。今よりフィーピー様の職業選択のお手伝いをさせていただきます」
「はぁ……そうなの?」
わけもわからないままだったが、ゲームなのだから戦ったり、ゲーム内で何かするための職業なのだろうと考えた。
しかし、提示された職業に紀子の目は点になった。
『職業選択は以下になります』
・高級娼婦: 王侯貴族専門の高級商館で仕事をするプロの娼婦。
・盗賊団の情婦: 大盗賊団のボスのお気に入り。
・魔道研究者: 天才的な魔道研究者。飛び抜けて知力が高いが、一般にはお尋ね者。
「なにこれ、ロクなのないじゃない。他にないわけ?」
「お待ちください、もちろん説明いたしますので。
まず高級娼婦ですが、実際に身体で奉仕する者と会話等で応対する者に分かれます。当然ですが、後者の場合は多くの人々、それも社会的に地位のある者と交流する事ができるわけです。
そしてこれらの職業につく者は同時に、何か修練の必要な事をしているケースが多いのも特徴ですね。魔法の使い手が多いのですが、隠密や暗殺の技能を訓練している者もおります」
「……ああ。ようするに目的をもって就くわけね」
「はい。実際、普通に魔法使いに就くだけだと容易に閲覧できない王侯貴族専用のライブラリなどにも、これらの職種の者はアクセス可能です。何しろ、関係者にサービスしながら『お願い』できるのですから」
「……なんだかイヤな感じね。ゲームなんだから、そこまでリアルにしなくていいのに」
「たしかに、そうでございますね。申し訳ございません」
申し訳ないと言いつつも、ちっとも申し訳無さそうでない雰囲気で執事は答えた。
その微妙さを紀子は面白いと思った。
「他のは何?」
「盗賊団の情婦ですが、実は魔道の専門家でもあります。盗賊団はその性質上、どうしても荒くれ者が多くマジックユーザーが少ない。この盗賊団の場合、才能持ちの小娘を手駒にして使っているわけです。
当然、彼女には行動の自由がまったくなく、ボスに求められたら奉仕をしなくてはなりません」
「全然メリットないじゃないの」
「いえいえ。実は彼女、他人の魔力を吸い上げて使う事ができるのです。そしてボスは魔法こそ使えないんですが、魔力が非常に大きい。彼女はボスの魔力をとりこみ、自分だけの魔力では到底扱えないような、つまり身の丈を超えた強力な魔法を扱う事ができます。
この、身の丈を超えた魔法を使うという事がもたらすメリットは絶大なものです。おかげで彼女はその若さで全属性を極める事も可能です。これは本来なら、長年魔道研究をしたウイザードにしかできない事なのですが」
「魔法使いになるのなら、とても向いてるって事?」
「はい。むろん日常面のデメリットがあるので誰にもオススメできるものではありませんが、魔法使いの修行と思えば、貴女なら可能なのではないかと」
「……なるほどね。いろいろと文句を言いたいとこだけどわかったわ」
最後の魔道研究者については、まぁ説明無用だろう。
「なんていうか、イロモノばかりねえ。普通の職業はないのかしら?」
「ありますね。しかし貴女はそれを選ばないでしょう」
自身たっぷりに言う執事。
「そうは言うけどねえ。なんで女を切り売りするような職業が多いのかしら?はっきりいって不愉快なんだけど?」
「はて、そうでしょうか?貴女は不愉快とは思っていないのでは?」
「……」
執事の言葉に、紀子は思わず絶句した。
「どういうことかしら?」
「不愉快に思われたのなら申し訳ありません。しかし、そう感じるのです。
貴女は単に、女性蔑視と思われる事象やキーワードに反応しているにすぎない。ただ、それは習慣によるもので、貴女自身がどう感じているかとは別の問題だ。違いますか?」
「……」
違わなかった。
紀子は、自分でも知らなかった自分の事に驚いたが、それを見抜いている目の前の執事もどき男にも驚いた。どうやら、見た目どおりに只者ではないらしい。
ふむ、と紀子は3つの職業らしきものを見なおしてみた。
まず、最後の魔道研究者というのはナシだろう。ゲームの世界でまで「ぼっち」は勘弁してほしい。
しかし、高級とはいえ娼婦というのはどうか。身体を求められるとは限らないとはいえ、社会的に地位のある人間に命令されたら、逆らえないのではないか?
そう考えると……盗賊団の情婦というのは意外に現実的にも思えるが。
「これはもう決定なの?今、この3つのうちに決めなくちゃいけないわけ?」
思うに、この選択肢は奇妙だと紀子は考えていた。
ゲームにおける職業がどういうものかは知らないが、そこに制約の多い社会的立場が織り込まれているのはなにか変ではないか。本来、ゲームとは自由にやるものに思えるのだが?
そう言うと、執事はハッキリと首をふった。
「もちろん、多くはそういう職業です。
ただし、貴女に提示したような制約の多い職業も存在し、就業している方もおられます。たとえば巫女、それから政府関係の事務職などです。これらはツンダーク社会に関わる職業なので制約が多く、自由にパーティを組んで冒険などできませんが、それでも確かに職業と言えます」
「……もはやゲームとは思えない内容ね、それじゃあまるで」
異世界の就職斡旋口。
喉から出かかった言葉を紀子は苦笑と共にのみこんだ。
紀子の言葉は、後の彼女の生活を思えば実に正鵠を射ていた。しかし紀子は当然、ただのゲームだと思っているので、そこまで口にする事はなかった。
執事はそんな紀子の内心まで見透かすように微笑み、それではと告げた。
「そうですね。それでは、貴女の人生の中で選択肢が現れるようにする事もできますよ?」
「どういうこと?」
「たとえば、王宮付きの娼婦としてスタートするとして、その人生の中に選択肢が現れるわけですね。自由な盗賊に連れ去られる人生か、魔道研究所に拾われてマッドなコースに邁進するかを選べる、とかね」
「ふーん」
そんな執事の選択肢に紀子は眉をよせて、
「それ順序おかしくない?」
「順序ですか?」
「その流れでいくなら、野にあって盗賊のお頭に囲われていた少女が王宮か研究所に拾われるコースじゃないの?まぁその、安っぽい出世コースなお話で悪いけどね」
素敵な王子様とか、白衣のイケメン学者がいたらしたら大笑いしそうだった。それはある種の女がとても好む、いい男に囲まれ逆ハー状態でお姫様扱いでウハウハというやつだろう。
そんなもの、男のハーレム妄想と何が違うというのか。
「おっしゃりたい事はわかるのですが、それだと選択肢が難しくなりますよ?」
「選択肢?」
「それは盗賊団が国などの力で滅ぼされ、そこから貴女が引き揚げられる事になる。つまり事態が動き出せば問答無用で、しかも流血の大惨事になるという事です。
しかし、国から盗賊団なら簡単だ。単に出ていけばいいだけなのですから」
「……そりゃま、そうなんだけどね」
しかし、悩んだところで話は進まない。
結果、最も自分の意思で動きやすいという事で高級娼婦を選ぶ事にした。ただし、いくつかの条件を確認して。
「王宮の図書館などで調べ物は普通にできるのよね?」
「もちろんです。もともと貴女の立場は、侍女には向かないけど王宮で囲っておきたい者のための職種でもありますし」
「どういうこと?」
得たりと執事は微笑んだ。
「魔法はツンダークではだれでも使えます。しかし強大な魔力の持ち主となると、これはいかにツンダークでも得難い人材なのです。したがって、これらの人材が見つかると、王宮はとりあえずその者を確保します。
しかし、無為徒食の輩を多数飼うほどに余裕があるわけではないのです。
したがって、それらは日常的には下働きか、あるいは城の者のお相手という事になるのですよ」
「なるほど」
「はい。ではお楽しみください、フィーピー様」
紀子はこの時の同意を、すぐに後悔する事になる。
だけどそれは同時に、彼女の新たな道の始まりでもあったのだった。
◆ ◆ ◆
首輪をつけられ飼われる人間の気持ちなんて、かつてのフィーピーは考えたことなど一度もなかった。
そこにはもちろん人権やら、尊厳やらは存在しない。相手がこちらに求めてくるのは身体を使ったご奉仕であり、そこにフィーピー本人の人格など必要とはされない。せいぜい、裏切らないか、従順であるかというレベルで求められるだけだ。
だけど、逆らうなんてフィーピーは考えたこともなかった。
ぎゃあぎゃあ喚き散らし、焼き印を押された女を見た事がある。敏感なところに焼き印を押されたその女は引き裂かれるようなものすごい悲鳴をあげ、盛大に汚らしいものをまき散らして失神した。
後に、その女は城から居なくなった。どうなったかは知らない。
聞けば、男もご奉仕させられているらしい。やはりそういう事なのだろうか?
おぞましいとか、汚らしいとは思わなかった。
ただフィーピーの頭の中にあったのは、勉強時間の事。
ここは王宮の中であり、フィーピーがこの仕事を志願したのは、そもそも王宮図書館で勉強したいからだ。なんの地位もお金もないフィーピーが魔道を極めようと思えば、それは近道のひとつのはずだった。
ちなみに、町にいる普通の魔道士に弟子入りする道もある。また西の国というところでは学校も始まったという。
弟子入りは師匠の当たり外れがひどすぎる。西の国は遠すぎるし路銀もない。
選択肢はなかったのだ。
幸い、フィーピーの魔法の才能は確かだったようで、すぐに採用となった。
ただし、その際に注意された事もあった。
『あなたは侍女には向かない。よって代償は王宮づき娼館仕事になるが、かまわないだろうか?』
この国には後宮がない。代わりに王宮づきの高級娼館があり、王族に危険がない事を徹底されている。
昔は後宮があったのだという。しかし、収容された子女同士の足の引き合いや敵対勢力の暗殺などが横行し、ついにお気に入りの娘を無残にも殺された当時の王がキレたのだという。
後宮は廃止しろと。
しかし、死亡率の高い世界で確実に一族を確保するのは王族の義務でもある。ゆえに考えられたのが現在の娼館であり、その艶めいた名前と裏腹に、その運営をしているのは国の暗部であり、保安部。
彼らは娼館が単に後宮の看板の架け替えにならぬよう、特権をふりかざそうとする他国の子女などをきちんと「教育」する事なども行っていた。
だけど。
そんな背景があろうと、客が非常に限定されていようと、やはりそこは娼館。それを思い知らされたのは、すぐの事だった……。
「……」
ふとフィーピーは、自分の事を考えた。
遠い昔、自分は別の世界にいた。忙しく仕事をして、いい肩書きとたくさんの収入をもらう事をアイデンティティとしていた日々。
だけど、どうしてだろう?
明日の命もしれないような世界とは違う、平和な場所のはずなのに……フィービーにはそこが、うさんくさい詐欺ばかり横行する地獄としか思えない。
ここは、いい。
確かに、女の尊厳がどうの、人権だのという者の目線なら、こっちの方が地獄だろう。不特定多数ではないとはいえ命令されて身体でご奉仕しなくちゃならない。他国と通じていないか等の調査だろうか、監視もついていたりするし、さらに特別な許可がない限り、妊娠しないための薬も必ず服用させられる。
さらにいうと、フィーピーには独自の問題もあった。
「フィーピーちゃん、図書館に行くの?お昼近いわよ?」
「今朝、お館様が長かったから。お昼食べられなくても勉強したいの」
「熱心ねえ。がんばって」
「うん、ありがとう。お姉さんもね」
「うふふ、ありがと」
種族的問題なのか、フィーピーはちっとも成長しない。
この世界にきた時、自分の幼気な姿を見て眉をしかめた。こんなので娼館づとめなど犯罪じゃないのかと。
どうも種族的問題プラス色々あって、子供っぽい外見というだけで実は大人なんだとか。しかも非常に長命のうえに回復力も強いのだとか。
そのせいだろうか?やたらと周囲がフレンドリーに思えるのは?
まぁ、殺伐としているよりはずっといい、というか居心地が良すぎて色々と困るのだけど。
でも、女性陣のフレンドリーさの持つ意味もまた、知っている。
そう。
もしフィーピーが娼館仕事できなくなったら、次は自分が娼館に入れられるかもしれない。特に若い侍女たちにはそういう思いがあって、それで妙に親切なのだと。
王族御用達なのはわかるけど、さすがに娼館はイヤだということか。
「……!」
その時、身体がゾクッと疼いた。
あっちでは女のソレなんて追求した事がなかったから、実際にどうなのかは知らない。だけどこっちで与えられるソレの目が眩むような快楽は、とても他にはたとえられないものだった。
昔、女を、男を身体で縛り付けるなんて言葉を聞いて、小馬鹿にして笑っていたのだけど。
「……!」
さすがのフィーピーも弱音を吐くほど、それは蠱惑的で魅力的だった。
今こうしている瞬間にも、欲しくなるほどそれは強烈だった。
実際、フィーピーと同期の女がひとりいたが、その女は完全に溺れてしまっている。以前はフィーピー同様に図書館通いをしていたはずだが、今はお呼びのない時は身体磨きに没頭している。
それは歳のせいではあるまい。理屈ではない、目を見ればわかる。
あれはもう、愛欲に溺れる以外の事を考えちゃいないのだろう。
「……確かに、縛られちゃうのもわかるわ」
仕込まれてしまったこの身体は、奉仕対象の王族の顔を見た瞬間にスイッチが入ってしまうほど。
これじゃあ、まるで麻薬中毒ではないか?
逃走したり逆らったりを防止するための奴隷の首輪が、なんの意味もなしていない。
湧き上がる淫魔のささやきを強靭な意志力で押さえ込み、フィーピーは図書館に急ぐ。
「……すさまじい意志力よの。逆にそこを精霊や魔に魅入られそうで危ういが」
そんなフィーピーを遠くから感心したように見ている女の姿に気づかないまま。
さすがに王宮のライブラリだけあって、魔道研究などの資料は実に豊富だった。
そればかりか、実際に魔法を試すための隔離室などもあった。そちらには本職の王宮魔道士たちもいたのだが、かまわずフィーピーも使わせてもらい、研鑽を続けていた。
当初、魔道士たちはフィーピーに侮蔑の目線を向ける者もいたのだが、今はいない。というのも、フィーピーが発掘したり復活した高位魔法がいくつも存在し、その持てる魔術理論も魔力さえも、一般人のそれどころか王族すらも余裕で上回っている事に誰もが気づいていたからだ。
もし彼らが魔道士でなく貴族なら、すぐにも王宮に報告され、フィーピーは有無をいわさず王宮に入れられていただろう。
だが彼らは魔道士、貴族とは思考が異なる。
魔道士は当人の意思を何よりも優先する。他ならぬフィーピー本人が保護を訴えれば彼らは応じるつもりだったが、あれほどの魔力と知識を持ちつつも遊女紛いの立場にいるのはなにか理由があるのだろうと考えていた。ゆえに彼らは干渉してこなかった。
フィーピーはそこまでは知らない。
ただ侮蔑の視線がなくなり、困った時に助けてくれるのはありがたいと思った。色々とやりやすい。
そんな日々の中、フィーピーはその資料に出会った。
「……サキュバスの魔法研究?」
かなり古ぼけた本であった。
このツンダーク世界には、いわゆる淫魔の類はあまり知られていない。いないという話も聞かないかわりに、そこいらを跋扈するほど存在もしていないらしい。むしろ絵空事の世界であり、だから、サキュバスという言葉がまじめな研究本にあるのは意外だった。
それに。
「なんで誰も気づいてないの?」
その本は別に隠されているわけではない。むしろ目立つ場所にあり、ほかの魔道士が発見していないのが不思議なほどだった。
いや。
「……誰も注目してない」
色がどうというわけでもないが、妙に目立つ本だった。
にもかかわらず、その目立つ本を持っている状態のフィーピーに誰も注目してこないのだ。
もしかして。
「これ……何か条件が揃わないと、見る事もできないって本?」
そういう本がある、と魔道士たちに聞いた事がある。
ウイザードにならないと発見すらできない本。特定の何かを修めないと探す事もできない本。
魔道士という連中はひねくれものが多いのか、そういう本が昔から多数存在すると。
ならば、この本のために必要な条件は?
「……」
ごくり、と喉が鳴った。
どこかでこの本を開きたい。そして読みたい。
そう考えたのだけど。
「……ここではダメだわ」
理屈ではない。フィーピーの中の何かがそう言っている。
ここでは開けない。開いてはならない。
では、どこで開く?
「……別の空間」
瞬間、フィーピーの顔が、とろーんと夢見るようなものになった。
何かに操られるように宙に手を浮かべ、何かを唱える。
すると。
「……」
突然、空中にぱっくりと空間が裂けた。
その向こうは、何か極彩色のサイケデリックな異界である。入ってしまえばもう戻れない、そんな印象があった。
さらに、その向こうには。
「……あれは」
筋骨隆々の男が立っている。ただし、首から上は狼のそれだし、全身毛むくじゃらでもあるが。
それは男であり獣であり。
……同時に、魔道を司る高貴なる……おそらくは人界を超越した何か。
男の姿を見た途端、フィーピーの身体はビクンとはねた。
フィービーの中に存在した、魔道を学ぶ者としての強靭な理性がその瞬間、音をたてて粉々に砕け散ってしまっていた。
「……ああ」
それは素晴らしいものだ、という意識がフィーピーの頭を埋め尽くす。
あれこそは、自分の探求する魔道の末にあるもの。
そしてアレこそは、私の大好きな■■■の先にあるもの。
相反すると思われたもの。
まさか、まさかそれがひとつになって現れるなんて……!
フィーピーは迷わず、その異界に足を踏み入れた。
その瞬間、異界の強大な魔力に首輪が壊れ床に落ちた。弾みでフィーピーの肌にも傷がついた。
しかし、その傷は一瞬で幻のように消えてしまう。
一瞬立ち止まり、そして再び歩き出した。
やがて、身につけていた衣服が繊維の拘束を失い、ぼろぼろと崩れ去っていった。だけど歩みは止まらない。
最後に、手にしていた書物も消え去り、ついにフィーピーは一糸まとわぬ姿になった。
「……」
男はただ、無言でじっと立っているだけだ。赤い瞳がフィーピーをじっと見ている。
「……ああ」
その男と目線が交差した瞬間、黒曜石の色だったフィーピーの瞳にも赤がさしはじめた。表情は既に歓喜のそれだ。
「……」
フィーピーの背後で音もなく、空間の裂け目が静かに閉じた。……壊れた首輪を残したまま。
フィーピーに起きた異変は、すぐに明らかになった。首輪は王宮の管理下にあり、それが外部からの巨大な魔力に壊された事は、一瞬のタイムラグもなく察知されたからだ。
首輪を調べた者たちの結論は「旧時代の魔が連れて行ったのだろう」との事。取り返せるとしたら、それはラーマ神だけであろうとも。
この件について神殿に問い合わせを行ったところ、以下のような返答がきた。
『フィーピー嬢は全属性の魔道とあわせ、性戯にも長けた特色を持っていた。ゆえに性愛と魔道を好む獣魔道神カクタスの目に止まった模様。取り返すにはそれなりの代償が必要となるが、何より本人が帰還を望まない可能性があるので、無理に取り返す事は推奨できない』
王宮では事態を吟味した結果、フィーピー嬢の所属を王宮魔道士に変更したうえ、そのまま王宮預かりとした。
だがその後、家族に連絡しようとしたところでなんとフィーピー嬢が異世界人である事が判明。事態を重く見た王宮は緘口令をしき、フィーピー嬢の話題は王宮のタブーとなったのであった。
◆ ◆ ◆
人権が保証された異世界でキャリア組であったフィーピー嬢が、どうして遊女なんて立場を許容できたのかについては諸説ある。いくつかの異説もあるが、ここでは最もセンセーショナルである賛否両論の説について触れたい。
つまり、フィーピー色ボケ説だ。
多少のセクハラ・パワハラ経験くらいはあったが本格的な色ごとはまったくの未経験だった彼女が、立場上たくさんの女に触れてきた王族専門の遊女となった。これだけでも色々と邪推してしまうところであるが、当時の王族の中にこの道の技術に優れ、後に性についての膨大な研究書を残した偉人『ナムハラ王』もいるのである。
当時のナムハラ王はまだ王位継承しておらず、ちょうどお遊びと称して性戯の研究にあけくれていた頃だった。王本人ではないから本当はグレーゾーンだったはずだが、本来の王をさしおいて娼館に通い、ツンダークに来たばかりで心身ともに未通女状態だったフィーピーの最初の教育係を担当したという。
当初、フィーピーは高い教育を受けている事が伺えたが、同時に妙にプライド高く、清らかではあったがおしとやかとは言いがたい状態だった。娼館の者が無理やり言う事をきかそうとしていたがうまくいかず、それを見ていたナムハラ王子はそれを止め、彼なりの手法で……つまり自ら溺れさせる方法で……きちんと教育してのけたのだという。
とはいえ、フィーピーは遊女となってからも節度をきちんと守り続けた。あまりにも礼節がきちんとしているので侍女や王宮詰めの魔道士たちも一目おいていたという。
また、そもそもフィーピー嬢は王宮図書館で勉強する権利と引き換えに遊女になった経緯があった。このルートで本当に魔道士になるケースは非常に珍しいのだが、彼女はきちんと魔道を修めたばかりか古代魔法の開拓まで行った。この点、のちの歴史家でフィーピー嬢に否定的な者でさえ、その実績だけは高く評価している。
だが、そもそも魔道学習と引き換えに遊女になる、なんて選択肢が存在する理由までは、フィーピー嬢は知らなかったのだろう。
魔道学習者にはお堅い者が多いのだが、実は性魔道と呼ばれる分野もある。この部分の詳細は秘密のベールに包まれていて一般には知られていないが、遊女や男娼に魔道をやらせる伝統の裏には、性魔道の大家となった者がこれらの職種から現れたという昔の記録に従っている。つまり、彼ら、彼女らも立派な魔道探求者という事だ。
なお、フィーピー嬢のその後だが、第七期以降の歴史に時々現れる魔女がどうやら彼女らしいとの事。屈強な男もしくは可愛らしい少年を連れ歩いている事が多いのだが、それはほぼ間違いなく彼女の所有物か、あるいはその候補のようである。
元異世界人としての彼女本人は、自分のたどった道をどう考えているのか?
それは……おそらく本人のみが知っている事だろう。




