第九十話「六十一日目」
六十一日目。
朝が来た。
施療院では、なかった。テスが目を覚ましたのは、救護所の裏手にある住み込みの、小さな一間だった。木の壁の、新しい匂いがする。慣れない天井。慣れない窓の位置。それでも朝の光は、同じように差し込んできた。テスはしばらく、その光を見ていた。
期限が過ぎていた。
六十日で施療院は閉じた。日数を数えるのは昨日で終わっている。今日はその向こう側だった。テスはそれを確かめるように、一度、目を閉じる。前の人生では、ここがなかった。六十日の向こう側が。終わりが決まっていて、その先がなかった。けれど今は、ある。期限の向こうに、朝が来ていた。
戸惑いが、まだ胸の奥にあった。
死ぬ側の覚悟ならできる。けれど生き残る側の明日は、不慣れだった。何をして、どこへ向かうのか。それを自分で決めなければならない。終わりが決めてくれない。テスはその戸惑いを抱えたまま、寝床から起き上がった。
ゲオルグは、もう起きていた。
裏手の井戸で顔を洗っていた。今日から救護所の引き継ぎが始まる。三十年分の患者の経過を、別の医者たちに伝える仕事。手は、まだ時々止まるだろう。沈んだものが急に晴れたわけではない。けれど老医師は起きて、井戸の水で顔を洗っていた。それが今日の始まりだった。
「テス」と、ゲオルグが言った。「お前はどうする」
テスは少し考えた。
医師の免許はない。薬もない。牢のあの六十日から変わらない。テスにできるのは聞くことだった。救護所には、診察を待つ人がいる。順番を待つ間、不安な人がいる。その傍らに座ることなら、できる。長屋の一角で誰かの話を聞くことも、できる。何をどこでするかは、まだ決まっていない。けれど、することはわかっていた。
「聞く仕事を」とテスは言った。「続けます。ここでも、どこでも」
ゲオルグは頷いた。それ以上は聞かなかった。
ミオが戸口から顔を出した。
少女は芋を入れた笊を抱えていた。救護所の厨房でもらってきたのだろう。テスの方へ来て、笊を差し出した。テスはそれを受け取った。少女がその隣にしゃがんだ。芋を洗う水の音が、新しい場所の朝に戻ってきた。形は違っても、音は続いていた。
そのときテスは、戸口に何かが置かれているのに気づいた。
桃が、ひとつ。
布の上に、ぽつんと置かれていた。朝の、まだ早い時刻に、誰かが置いていったらしい。送り主の名はなかった。札もなかった。ただ、よく熟れた桃がひとつ。表面に産毛が光って、かすかに甘い匂いがしていた。
テスはそれを手に取った。
市場帰りに果物を寄付する習慣のあった人が、施療院の閉じたことを知って、移った先を訪ねたのかもしれなかった。桃をひとつ、置いて。なぜ桃なのかは、置いた本人もわからないまま。
テスは桃を手のひらで包んだ。
熟れた実のわずかな重みが手に伝わってきた。甘い匂いが朝の空気に混ざる。桃は、いい果物だった。選んだ人の話が聞ける。何を迷って、何を選んだか。けれど今日の桃には、話がなかった。それでもテスにはわかった。誰が、なぜこれを置いていったのか。説明のいらない桃だった。
聞くことは、場所を選ばない。
牢の中でもできた。閉じた施療院でもできた。そしてこの、新しい朝の見慣れない一間でも、できる。道具がなくても。権力がなくても。死ぬ側でも、生き残る側でも。聞くことだけは、どこへ移っても続けられる。テスはいま、それを手のひらの桃の重みと一緒に確かめていた。
ミオが芋を洗う手を止めて、桃を見上げた。
テスはその桃を二つに割った。種をよけて、半分を少女に渡した。ミオが受け取って、それを口に運んだ。甘い汁が少女の指を伝う。テスも残りの半分を口に入れた。熟れた桃の甘さが舌の上に広がる。誰かがそっと置いていった甘さだった。
朝の光が、新しい部屋の床に伸びていく。
期限は過ぎていた。けれど朝は来た。明日も来る。テスはそれを、もう戸惑わずに迎えられる気がした。聞く相手はいる。隣に芋を洗う子がいる。引き継ぎへ向かう老医師がいる。名も告げずに桃を置いていく誰かがいる。終わりの向こう側で、人生はまだ続いていた。
テスは桃の種を手のひらに握った。
いつか、これを土に埋めてみよう、と思った。芽が出るかどうかはわからない。出ても、実るまでには何年もかかる。それでも、埋めてみよう。明日が続くのなら。その先の朝も続くのなら。テスは種を握ったまま、開いた窓の外の、まだ薄い空を見上げた。
(第二部・完)




