第八十九話「……先生」
閉院の日。
朝から、人の出入りが続いた。
最後の荷を救護所へ運ぶ荷馬車が、二度、門をくぐった。木箱を積み、藁を詰め、紐をかける。手伝いの女たちが忙しく動く。診察室は、もう机一つだけになっていた。その机も午後には運び出される。床のあちこちに、あったものの形だけが白く残っていた。
テスはその日も、廊下を拭いていた。
運び出しの済んだ床を端から雑巾で拭いていく。明日には誰もここを使わない。それでも拭いた。閉じる場所を汚れたまま明け渡したくはない。冷たい水が雑巾を絞るたびに、指の間を流れていく。
ゲオルグはミオの荷をまとめていた。
少女も救護所の、住み込みの一角へ移ることになっていた。脚の短い椅子は、荷のいちばん最後に積まれる。ミオはその椅子が荷台に乗せられるまで、じっと見ていた。それからテスの方へ来て、袖を引く。テスは頷いた。少女も頷いた。
午後の遅い時刻に、ライアンが来た。
巡回の刻限どおりだった。けれど今日は巡回の用だけではない、という顔をしていた。閉院の日だと知っていたのだろう。馬を門の脇に繋いで、男はゆっくりと中庭に入ってきた。荷を運ぶ女たちが衛兵隊長に頭を下げる。男は軽く応えた。
「今日で、終わりか」と、ライアンはゲオルグに言った。
「ええ。機能は救護所へ。私もしばらく、そちらに」
「そうか。巡回の管轄は変わらん。救護所も私の地区だ」
「では、また」
「ああ」
挨拶は、それで済むはずだった。
男はけれど、すぐには門へ戻らない。中庭の隅に立って、空になっていく施療院を見ていた。それから視線が、廊下を拭いているテスの方へ移る。テスは雑巾を絞っていた。最後の、ひと拭き。腰を伸ばして雑巾を桶に戻す。その動きをライアンは見ていた。
テスは立ち上がって、男の方を向いた。
「お世話になりました。巡回で、いつも」
ライアンが頷いた。口を開きかけて、声にならなかった。男の視線がテスの顔の上で定まらない。違和感が確信にならないまま、喉の手前でつかえている。そういう顔だった。男は一度、目を伏せる。それから、また上げた。
「……先生」と、ライアンは言った。
テスは男を見た。
「はい」とだけ、答えた。
それ以上は何も言わなかった。男も何も聞かなかった。テスがなぜその呼びかけに答えたのか、男がなぜその言葉を口にしたのか、どちらも確かめない。テスも説明をしない。二語だけが、二人の間に置かれた。
ライアンはしばらく、テスを見ていた。
何かを確かめるでもない。納得するでもない。ただその二語が置かれたことを受け取った、という顔だった。男の肩からすこしだけ力が抜ける。それからライアンは姿勢を正した。胸の前に拳を当てて、敬礼をする。テスにではなく——あるいは、テスに向けて。
テスは頭を下げた。
ライアンが踵を返した。足音が門の方へ遠ざかっていく。男は振り返らなかった。今度は、途中で立ち止まることもなかった。門を出て馬に跨り、夕暮れの道へ消えていく。テスはその背中を、門の内側から見送った。
それで、おしまいだった。
院の中は静かになっていた。荷馬車は出払い、女たちも帰っていく。残ったのは、テスとゲオルグとミオだけだった。荷は、もう救護所の住み込みの一角へ運び終えていた。三人も今夜から、そちらへ移る。この施療院で過ごす夜は、もうない。
テスは最後に外へ出て、扉の前に立った。
施療院の、正面の扉。三十年、開いていた扉。テスはそれを外から引いて、閉めた。重い扉が軋みながら閉じていく。隙間が細くなり、中の暗がりが細くなり、やがて消える。閉じきった扉に、テスは鍵をかけた。古い鍵が錠の中で固く回る。
その音を、テスは聞いていた。
次話:「六十一日目」




