第八十八話「最後の患者」
残り二日。
閉院の前夜だった。
荷造りは、ほとんど終わっていた。診察室に残っているのは、机一つと、運ぶか捨てるかまだ決まっていない、わずかな雑物だけ。ゲオルグは机のいちばん手前の引き出しを開けている。そこに褪せた感謝状の束が入っていた。あの朝、机の端の布包みから移して置き直した、三十年分の紙の束。
「これを、どうしたものか」
テスは机の向かいに座った。
老医師が束を机の上に置いた。麻紐で無造作に括られている。いちばん上の一枚は、文字がほとんど読めないほど褪せていた。誰かが、誰かの代筆で書いたものらしかった。震えた字。慣れない字。礼を言うための、不器用な字だった。
「紙切れだ。前にお前に、そう言った」
「覚えています」
「治った者が礼に置いていく。けれど紙は、薬にはならん。次の患者の痛みは引かせられん。だから紙切れだと」老医師は束を指で軽く叩いた。「そう言った。言って——捨てなかった」
テスはその束を見ていた。
三十年。捨てる機会は、いくらでもあったはずだった。引き出しがいっぱいになった時。引っ越しでもあれば。けれどゲオルグは捨てなかった。紙切れだと言いながら、引き出しのいちばん奥にしまい続けた。閉院の荷造りでも、捨てずに机の手前へ置き直した。
「なぜ捨てなかったのか」
問いだった。今度は、ゲオルグ自身への。
テスは答えなかった。
答えはゲオルグの中にあった。テスが言えば、それはテスの答えになる。この人が自分でたどり着かなければ意味がなかった。だからテスは、ただいちばん上の一枚を手に取る。褪せた字を目で追った。誰がいつ、何への礼なのか、もうわからない。けれど礼があった。その事実だけが紙の上に残っていた。
ゲオルグが束から別の一枚を抜いた。
「これは覚えている。冬に足を凍らせた男だ。指を二本落とした。それでも生きて帰っていく。畑を続けると言って」紙を見ながら、ゲオルグは続けた。「この字は、その男の女房の字だ。男は字が書けなかった」
テスはその紙を受け取って見た。
ゲオルグの声が、ゆっくりになった。
「建物は明日、閉じる。寝台も薬棚も運ばれた。けれど——この字を書かせたのは、建物ではなかった」
老医師が束に手を置いた。
「指を診たのは私だ。建物ではない」と、ゲオルグは言った。たどり着く声だった。「私はずっと、この施療院が自分を医者にしていると思っていた。けれど違う。建物が医者だったのではなかった。私が——診ていた。場所が変わっても、診る者は残る。お前が言おうとしたのは、これか」
テスは頷かなかった。
老医師は束をもう一度、麻紐で括り直した。捨てるためではない。運ぶために。救護所へ持っていくために。紙切れが、荷物に加わった。
そのとき、門で声がした。
「すまねえ、まだ開いてるかい」
戸口に初老の男が立っていた。近くの荷運びだという。重い樽を運んでいて、手のひらをすりむいた。血が滲んでいる。閉院を聞いていたのかいないのか、ただ明かりが灯っているのを見て寄った、という顔だった。
「診てもらえるかね」
ゲオルグが立ち上がった。
「入りなさい」
男を机の前に座らせた。残った布で傷を拭き、わずかな軟膏を塗る。三日もすれば塞がる、何でもない傷。劇的なことは何もない。男は痛え、と顔をしかめて、礼を言い、樽を担ぎ直して帰っていった。閉院を知らずに来て、知らずに帰っていく。
それが三十年の、最後の患者だった。
ゲオルグは男の去った戸口を、しばらく見ていた。最後がこれか、という顔ではなかった。手のひらの、何でもない傷を診て、男を帰す。三十年の初日も、こういう一日だったのかもしれない。けれど、最後まで診た。
「テス」と、ゲオルグは言った。「軟膏が、あと少し残っている」
「持っていきましょう。救護所へ」
老医師は頷いた。残った軟膏を布で包んで、荷のいちばん上に置いた。明日には、ここは閉じる。けれど今日も人が来て、診て、帰っていった。テスはその何でもない一日の終わりを、机の向かいで見ていた。窓の外は、もう暗かった。
次話:「……先生」




