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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第八話「名前をつけること」

残り四十日。


夜の静寂の中で、遥は整理した。


ライアンについて、今わかっていること。


咳は一ヶ月以上続いている。明け方と夜に多い。睡眠は二、三時間程度。三年前から続いている。過覚醒の状態が持続している。音への過剰な驚愕反応がある。遠征の記憶が今も鮮明で、現在に引き戻される瞬間がある。「慣れた」と自分に言い聞かせているが、実際にはそうなっていない。


診断名をつけるなら——


PTSD。


心的外傷後ストレス障害。外傷的出来事の後に生じる、侵入症状・回避・認知と気分の否定的変化・過覚醒の持続。前世で学んだ定義が、そのまま頭に浮かんだ。ライアンの状態は、その定義に沿っていた。


もちろん確定診断ではない。検査はできない。問診も十分ではない。でも臨床的な印象としては、かなり確度が高い。


この世界にPTSDという概念があるかどうかはわからない。


遥は少し考えた。


たぶん、ない。あるいは別の名前がついているかもしれない。「遠征帰りの病」とか「戦士の魂の傷」とか、そういう言い方をするかもしれない。でも名前は何でもよかった。名前は、共通認識のための道具だ。遥が自分の中でPTSDと呼べば、対処法の引き出しが開く。それで充分だ。


前世の精神医学の知識が、今この牢の中で役に立つとは思わなかった。でも、役に立っている。知識が体に染み込んでいるから、別の世界にいても動ける。診断名がなくても、症状の構造がわかれば、アプローチは組み立てられる。


ライアンの場合、今やるべきことは三つだ。


一つ目は、安全を感じてもらうこと。ここに話してもいい相手がいると知ってもらうこと。それはできつつある。二つ目は、記憶の断片を少しずつ言語化してもらうこと。草原の話はその始まりだ。三つ目は、睡眠の改善。これが一番時間がかかる。でも、他の二つが進めば、少しずつ変わるはずだ。


六十日で全部はできないかもしれない。でも、始めることはできる。


問題は、何ができるか、だった。


薬はない。精神科の専門技法を使う環境でもない。椅子も机もない。ノートも鉛筆も渡してもらえていない。使えるのは、言葉と時間と空間だけだ。


それでも、できることがある。


認知処理療法の原理は、言葉でできる。体験したことを、少しずつ言語化していく。回避から、接触へ。恐怖の対象に徐々に近づく。感情を否定せず、ただそれを見ていく。


それは、言葉だけでも可能だ。


遥は暗がりの中で、静かに計画を立てた。焦らない。押さない。ライアンが言える言葉だけを受け取る。沈黙も受け取る。何も言えない夜も、ここにいる。


六十日でできることと、できないことがある。できることは、安全を感じてもらうこと、少しずつ言語化を手伝うこと、眠りにつくための手がかりを伝えること。できないことは、あの遠征での出来事を消すこと、失った人間を取り戻すこと、三年間を巻き戻すこと。できることだけをする。できないことに時間を使わない。それが遥の中で、六十日前から変わらない指針だった。


明け方、ライアンの咳が聞こえた。今日は短かった。一回だけ。昨日より少ない。


少し、よくなっているかもしれない。


根拠のない楽観を持ちたいわけではなかった。でも、変化は変化として、受け取った。ライアンの体が、少し緊張を解き始めている。その証拠として、咳が変わりつつある。言葉が増えた。立つ位置が変わった。音への反応が変わった。小さな変化が、複数の場所で同時に起きていた。


一つひとつは細かいことだ。でも、複数が同じ方向を向いているとき、それはただの偶然ではない。何かが動き始めている。遥はその感覚を、前世で何度も経験していた。患者が変わり始めるとき、どこかから匂いのように感じ取れるものがある。名前がない感覚だが、確かにあった。


窓のない牢の中、夜明けを光ではなく音で感じた。廊下の奥から衛兵の交代の声が聞こえた。一日が始まる。残り四十日。


今日も聞こう。


次話:「なぜ聞くんですか」

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