表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/27

第七話「あの人のこと」

残り四十三日。


夜中に目が覚めた。


理由はよくわからない。ライアンの咳の音ではなかった。ただ、目が開いた。


遥は暗がりの中で天井を見た。


石の天井。松明は消えかかっている。薄い橙色の光が、壁の低いところを照らしているだけだった。


前世のことを考えている。


気づいた。


あの患者のことだった。名前が出てこない。三十代の男性だったと思う。二年間、通院していた。表情が乏しく、言葉が少なく、でも毎回きちんと来た。薬を飲んでいた。少しずつよくなっていた、と思っていた。


思っていた、だけだったのかもしれない。


最後の診察の日も、いつもと変わらない始まりだった。遥が「最近の調子はどうですか」と聞いた。いつも「まあまあです」と答える人だった。でもあの日は少し間があった。「先生」と呼んだ。それが最後の言葉だった。


あの日、診察の途中だった。彼の手が、遥の首に伸びた。理由は最後までわからなかった。怒りだったのか。愛着が歪んだのか。遥が何かを言って、それが引き金を引いたのか。何かを見落としていたのか。二年間の診察の中に、遥が見逃していたものがあったのか。


意識を失う前に思ったのは、痛い、という感覚だけだった。怖い、ではなかった。


なぜ怖いと思わなかっただろう。


今でも、不思議に思うことがある。


死ぬかもしれない、と思っても、怖くなかった。残念だとは思った。まだやれることがあった気がした。でも怖くはなかった。恨みもなかった。あの人が悪い人だとは思わなかった。何かが限界だった人だ、と思っていた。


ライアンを見ていると、あの人のことを思う。


関係のない人だ。疾患も違う。性別も違う。年齢も違う。でも——言葉にならないものを抱えて、それに押しつぶされそうになっている、という点では、似ていた。


あの患者には、家族がいたのかどうか知らない。誰かが「眠れているか」と聞いてくれていたのかどうかも知らない。もし聞いてくれる人が一人でもいたなら、あの日の診察は違っていたかもしれない。そうかもしれない。そうでないかもしれない。でも、遥はそう考えることをやめられなかった。だから今、ここにいる。聞ける状況があるなら、聞く。それだけのことだ。


私は、あの人を助けられなかった。


遥はそれを、静かに認めた。


助けられなかった。死ぬ前にそれを知った。残念だった。でも後悔は、少し違う場所にある。何が見えていなかったのか。何を聞けばよかったのか。どこかに、もっと早く開けられた扉があったのかもしれない。


それを考えることは、自分を責めることではない。次のために考える。あるいは、もう次がなくなっても、考える。それが遥の中にある何かだった。


ライアンには、何が残っているんだろう。


草原の話をしたとき、彼の目が少し遠くなった。現在から離れた目だ。記憶の中に引き込まれた目だ。あの感覚を遥は知っている。患者が過去に戻っていく瞬間。戻ってしまって、現在に帰れなくなる瞬間。


ライアンの目が遠くなったとき、遥はただ待っていた。声をかけなかった。名前を呼ばなかった。どこかに戻っている人間を、急に引き戻すことはしない。それは前世で学んでいた。記憶の中にいる人に、「今ここにいますよ」と声をかけすぎると、かえってパニックが起きることがある。待つ。自分のペースで戻ってくるまで、ただここにいる。遥にできることの中で、「ただここにいる」は一番シンプルで、一番難しいことだった。


ライアンはまだ、帰れていない。


三年間、帰れていないのかもしれない。


松明の残り火が、かすかに揺れた。外から風が吹き込んでいるのか、細い隙間からの気流か。炎が一度大きく揺れて、それからゆっくり収まった。


遥は目を閉じた。


明日も聞こう。急がなくていい。ここにいる。


眠れるかどうかわからなかった。でも、目を閉じた。それで充分だった。


次話:「名前をつけること」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ