第七話「あの人のこと」
残り四十三日。
夜中に目が覚めた。
理由はよくわからない。ライアンの咳の音ではなかった。ただ、目が開いた。
遥は暗がりの中で天井を見た。
石の天井。松明は消えかかっている。薄い橙色の光が、壁の低いところを照らしているだけだった。
前世のことを考えている。
気づいた。
あの患者のことだった。名前が出てこない。三十代の男性だったと思う。二年間、通院していた。表情が乏しく、言葉が少なく、でも毎回きちんと来た。薬を飲んでいた。少しずつよくなっていた、と思っていた。
思っていた、だけだったのかもしれない。
最後の診察の日も、いつもと変わらない始まりだった。遥が「最近の調子はどうですか」と聞いた。いつも「まあまあです」と答える人だった。でもあの日は少し間があった。「先生」と呼んだ。それが最後の言葉だった。
あの日、診察の途中だった。彼の手が、遥の首に伸びた。理由は最後までわからなかった。怒りだったのか。愛着が歪んだのか。遥が何かを言って、それが引き金を引いたのか。何かを見落としていたのか。二年間の診察の中に、遥が見逃していたものがあったのか。
意識を失う前に思ったのは、痛い、という感覚だけだった。怖い、ではなかった。
なぜ怖いと思わなかっただろう。
今でも、不思議に思うことがある。
死ぬかもしれない、と思っても、怖くなかった。残念だとは思った。まだやれることがあった気がした。でも怖くはなかった。恨みもなかった。あの人が悪い人だとは思わなかった。何かが限界だった人だ、と思っていた。
ライアンを見ていると、あの人のことを思う。
関係のない人だ。疾患も違う。性別も違う。年齢も違う。でも——言葉にならないものを抱えて、それに押しつぶされそうになっている、という点では、似ていた。
あの患者には、家族がいたのかどうか知らない。誰かが「眠れているか」と聞いてくれていたのかどうかも知らない。もし聞いてくれる人が一人でもいたなら、あの日の診察は違っていたかもしれない。そうかもしれない。そうでないかもしれない。でも、遥はそう考えることをやめられなかった。だから今、ここにいる。聞ける状況があるなら、聞く。それだけのことだ。
私は、あの人を助けられなかった。
遥はそれを、静かに認めた。
助けられなかった。死ぬ前にそれを知った。残念だった。でも後悔は、少し違う場所にある。何が見えていなかったのか。何を聞けばよかったのか。どこかに、もっと早く開けられた扉があったのかもしれない。
それを考えることは、自分を責めることではない。次のために考える。あるいは、もう次がなくなっても、考える。それが遥の中にある何かだった。
ライアンには、何が残っているんだろう。
草原の話をしたとき、彼の目が少し遠くなった。現在から離れた目だ。記憶の中に引き込まれた目だ。あの感覚を遥は知っている。患者が過去に戻っていく瞬間。戻ってしまって、現在に帰れなくなる瞬間。
ライアンの目が遠くなったとき、遥はただ待っていた。声をかけなかった。名前を呼ばなかった。どこかに戻っている人間を、急に引き戻すことはしない。それは前世で学んでいた。記憶の中にいる人に、「今ここにいますよ」と声をかけすぎると、かえってパニックが起きることがある。待つ。自分のペースで戻ってくるまで、ただここにいる。遥にできることの中で、「ただここにいる」は一番シンプルで、一番難しいことだった。
ライアンはまだ、帰れていない。
三年間、帰れていないのかもしれない。
松明の残り火が、かすかに揺れた。外から風が吹き込んでいるのか、細い隙間からの気流か。炎が一度大きく揺れて、それからゆっくり収まった。
遥は目を閉じた。
明日も聞こう。急がなくていい。ここにいる。
眠れるかどうかわからなかった。でも、目を閉じた。それで充分だった。
次話:「名前をつけること」




