第六話「草原と泥の話」
残り四十六日。
名前を知ったのは、この日だった。
別の衛兵が「ライアン、交代だ」と廊下から声をかけた。男がそちらに返事をする。それだけのことだった。でも遥はその名前を、心の中でそっと繰り返した。
ライアン。
名前がわかると、観察が変わる。「男」ではなく「ライアン」として見るようになる。細かいことのように思えるが、遥には大事なことだった。患者の名前を呼ぶことは、その人を「症状の集まり」ではなく「その人」として見ることの始まりだと思っていたから。まだ直接呼びかける段階ではない。でも、名前を知った。それだけで、見え方が変わった。
夕方、ライアンが定位置に立った。遥はしばらく黙っていて、それから静かに声をかけた。
「三年前の遠征というのは、どんな場所でしたか」
男が——ライアンが振り返る。眉が寄る。遥は続けた。
「場所だけでいいです。どんな地形だったか、天気はどうだったか」
長い沈黙。
遥は待った。返事がなければ、それでもいい。ただ、問いを置いた。場所から聞く。何が起きたかではなく、どんな場所だったか。それが最初に聞けることだ。
「……草原でした」
ライアンが言った。
「広い草原が続いていて、泥が多かった。秋で、雨が多い時期だったので」
「冷たかったですか」
「はい。夜は特に」
「テントで眠っていたんですか」
「最初は。後半は野営が続いた」
言葉が、少しずつ出てきた。景色の話だった。遥は急かさなかった。何が起きたかは聞かなかった。草原の色、泥の重さ、夜の冷たさ。その話だけをした。
「大勢いましたか」
「部隊は二百人ほどで。でも最終的には……」
ライアンが止まった。
遥は待った。
「……半分以下になりました」
声が低くなった。平板だった。感情を乗せないようにしているのが、わかった。感情を乗せると、崩れてしまう可能性があることを、この人は知っている。
「そうですか」
遥は、それだけ言った。
二百人が百人以下になった。ライアンはそこにいた。生き残った側にいた。それがどういうことか、遥には言葉にならない。でも、感じることはできた。生き残ること自体が、ある種の傷になる。「なぜ自分だけ」という問いは、答えが出ない問いだ。出ないままずっとそこにある。それがPTSDの中心にあることも多かった。前世で何人もの患者から聞いた話だった。
「……人が死ぬのには、慣れましたけど」
ライアンが続けた。まるで自分に言い聞かせるように。
「慣れた、と思いたい気持ちがある、ということかもしれません」
遥は静かに言った。
ライアンが黙った。顔が少し、強張った。否定しようとして、できなかったように見えた。
数秒後、ライアンはゆっくりと頷いた。小さく、一度だけ。
「……そうかもしれません」
それが、今日のすべてだった。でも遥には、充分だった。自分の感情に自分で気づく瞬間。言葉にはならなくても、頷きで認められる瞬間。それが、始まりだ。
夜、遥は壁に背を預けて目を閉じた。
草原の話を聞きながら、遥は自分が患者を前にしたときの感覚を思い出していた。前世での話。クリニックの診察室。椅子に座って、向かいに座る人の話を聞いた。ただ聞いていた。解決しようとせず、変えようとせず。ライアンが「草原が続いていて、泥が多かった」と言ったとき、遥にはその景色が少し見えた気がした。秋の冷たい草原。雨の多い季節。泥だらけの野営地。その中に二百人がいて、半分以下になった。ライアンはその地面を歩いて、帰ってきた。帰ってきた後も、その地面を歩き続けている。夜も、夢の中も。三年間、帰れていない。
ここでは、それしかできない。でも——それでいい。
ライアンは今夜、どこにいるのだろう。任務が終わって部屋に帰った後、横になっているのか、それとも起きているのか。草原の話をした後、帰宅してから何を思っていたのか。あの話を口にしたことで、何かが緩んだのか、それとも逆に何かがぶり返したのか、遥にはわからなかった。でも、言葉にしたことは無駄にはならない。口に出すことで、少しだけ外に出せる。全部出すのではなく、少しずつ。その少しずつが、六十日で積み重なるかもしれない。
松明が揺れる音がした。
次話:「あの人のこと」




