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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第五話「慣れていない、という」

残り四十九日。


十一日目の朝、男がぽつりと言った。


「早番に慣れれば楽になると思っていたんですが」


独り言のような声だった。遥に向けて言ったのか、自分に言ったのかわからないような調子。でも遥は聞いた。


「慣れていない、ということは眠れていないんですか」


男が振り返る。少し目が広くなった。言うつもりのないことを拾われた、という顔だった。


「……まあ、そんな感じで」


「どのくらい寝られていますか」


男は少し考えた。「二、三時間は」


「毎日ですか」


「……最近は」


遥は頷いた。責めない。数字を確認するだけ。男がそれを感じたのか、少し肩の力が抜けた。


「以前は眠れていましたか」


「……三年くらい前までは」


「そうですか」


遥はそれ以上聞かなかった。三年。遠征があったのはいつだろう。直接聞くには、まだ早い。でも、時系列が少しだけ見えてきた。


三年前から眠れない。三年前に何かが起きた。戦場に行ったのか、戦場で何かを見たのか。この男の体に刻まれているものは、外からは見えない。甲冑が隠している。でも目の下の影と、肩の緊張と、咳は外に出てくる。体は隠さない。頭が隠そうとしていても、体は三年間ずっと言い続けている。まだ終わっていない。まだ安全ではない。その声を、誰も聞いていなかったのかもしれない。


男はまた正面を向いた。でも今日は、すぐには黙らなかった。


「薬とか、飲めばいいんですかね」


独り言のような問いだった。


「薬が効くこともあります」と遥は答えた。「でも、それだけで全部解決するわけでもなくて」


「そういうもんですか」


「そういうもんです。眠れない理由が何かにもよります」


男は少し考えるように黙った。自分で問いを出して、自分で答えに向き合おうとしている。遥はその間を崩さなかった。


「理由……」


男がそれを繰り返した。声が少し低くなった。


思い当たることがある。でも言葉にするのが怖い。


遥にはそう見えた。ここが急かしどころではない。前世のクリニックで、遥は患者に「眠れない理由は何だと思いますか」と聞くことがあった。多くの患者は、最初は「わからない」と言う。でも少し間を置くと、「あの出来事からかもしれない」と言い始める人が多かった。最初から全部言える人はほとんどいない。言葉にするには、準備が要る。その準備を、こちらが急かしてはいけない。問いを置いて、待つ。それが遥の仕事の、最も基本的な部分だった。


「わからなければ、わからないままでいいです」と遥は言った。「ただ、眠れない夜が続いているのはわかりました」


「それだけで?」


「それだけで充分です」


男は少し間を置いて、「……変なひとですね」と言った。


責めているわけではなさそうだった。どちらかというと、困惑の中に、少し温度があった。


「よく言われます」


遥は素直に答えた。男がかすかに、口の端を動かした。笑ったわけではない。でも、硬さが少し崩れた。


昼過ぎ、別の衛兵が食事を持ってきた。今日はパンだけだった。遥は受け取りながら、廊下の外に広がる石の通路を少しだけ見た。窓はない。光は扉の隙間と松明だけ。


外が見えない場所というのは、時間の感覚が狂う。


でも今日は、少し時間が密度を持った気がした。


男と言葉を交わした。それだけで、一日が少し違う質感になる。それは牢の外でも、ここでも、変わらないことだった。


石の壁を見ながら、遥は「三年くらい前まで」という言葉を反芻した。三年前に何かが起きた。それ以来、眠れていない。その何かを、男は自分から言わなかった。言えなかったのか、言いたくなかったのか、言い方がわからなかったのか。おそらく、その全部だと遥は思った。重い経験は、すぐに言葉にならない。その重さをそのまま外に出したら、自分が壊れてしまうかもしれないと感じる。だからまず、周辺の話から。天気から。地形から。そこからしか始められない人がいる。この男はそういう人だと、遥は感じていた。


次話:「草原と泥の話」

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