第四話「三十センチ、近い」
残り五十二日。
三日間、男は何も言わなかった。
遥も、何も言わなかった。
押すタイミングではない、と判断していた。相手はまだ警戒している。一度口を開いた後、黙ることがある。それは後退ではなく、処理の時間だ。あの短い会話を、男はどこかで咀嚼していた。
遥がしたのは、ただそこにいることだけだった。
三日目の夜、遥は気づいた。
男の立つ位置が、変わっていた。
扉から三十センチほど前に出ている。以前は扉のすぐ手前に立っていた。それが今日は、通路の中央寄りになっている。わずかな差だ。遥の鉄格子に、少し近い。
意識的な変化ではないかもしれない。でも、体は正直だ。
近づいても大丈夫だ、という感覚が、少し生まれた。
遥はそれを言葉にしなかった。確認しなかった。ただ見ていた。
男は今日も甲冑を身に着けていた。宮廷の衛兵の制服だ。でも遥の目には、その下に、三年間の疲れが見えていた。背中の緊張。指先の力み。それらが少しずつ変わっている。変わっていることは、体が生きているということだった。三年間固まっていても、変わる可能性を持っていた。
四日目、また咳が出た。男は少し眉を寄せて、口元を手で覆った。そのしぐさが初めて見えた。以前はずっと背中しか見えなかった。向きが変わっていることに、今日になって気づいた。男は今、扉の方を向くのではなく、少し斜めになっている。視野にこちらが入るような角度に、自然となっていた。
無意識の変化だ。こちらを視界に入れることに、抵抗がなくなってきた。
夜になると、廊下の奥で何か金属の音がした。鎧か何かがぶつかった音だ。男の肩が一瞬上がった。手が剣の柄に向かう——でも今日は途中で止まった。手が、柄に触れる前で止まった。
遥は息をひそめて、それを見ていた。
三日前は反射的に手が動いた。今日は、止まった。
自分が反応していることに、気づいている。
それが大事な変化だった。過覚醒の状態にある人間が、自分の反応を観察できるようになること。それは回復の入り口の一つだ。反射が反射であることに気づくまで、三年かかることもある。それが一週間で起きているなら、この男の中に回復しようとする力がある。誰かに話したことで、何かが動き始めたのかもしれない。いや、まだそこまで言うのは早いかもしれない。ただ、変化は変化だ。小さくても、変化は変化として受け取った。
明け方近く、咳の音がした。今夜は長かった。五回、六回と続いて、苦しそうに途切れた。
遥は起き上がって、鉄格子の方を見た。暗くて男の表情は見えない。でも、呼吸が整うまでの時間が、今日は少し長かった。
男はいつ眠っているのだろう、と遥は思った。任務が終わってから眠るのだろうが、眠れているのかどうか。
眠れていないのは確かだ。
何もできないことが、少しだけ辛かった。薬があれば、咳を抑えられるかもしれない。眠りを助けられるかもしれない。前世では、不眠に対して薬を使うことが多かった。すぐに効く薬があった。でも今はない。言葉だけある。
言葉でできることを、遥は考えた。呼吸法は教えられる。「吸うより吐く方を長くする」という方法だ。副交感神経を優位にする効果がある。深呼吸が眠りに繋がることは、体のメカニズムとして説明できる。それを伝えることはできる。何かできることがあると知るだけで、人は少し楽になる。無力感は、症状そのものと同じくらい人を消耗させるから。
「大丈夫ですか」
暗がりの中で、遥は静かに言った。
少し間があった。
「……はい」
短い返事。でも返ってきた。
それだけで、遥は横になった。石床が冷たい。薄い布一枚では足りないが、今はそれで充分だった。
五十二日、ある。
次話:「慣れていない、という」




