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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第三話「一ヶ月ほどです、と」

残り五十五日。


五日目の朝だった。


男がまた咳をした。今日は連続して三回。乾いた音が石壁に跳ね返って、小さく反響した。


遥は鉄格子に近づいた。


「あなた」


男が振り返る。眉が少し上がる。


「いつから咳が続いていますか」


沈黙が数秒続いた。男は遥を見た。何の意図があるのか、確かめるような目だった。


「……一ヶ月ほどです」


正直に答えてくれた。遥は内心で、わずかに息をついた。拒絶も嘘もなかった。それだけで、充分だった。


一ヶ月。遥は静かにその数字を受け取った。一ヶ月以上続く咳と睡眠障害。前世の基準でいえば、これは慢性の範疇に入る。三日で改善するものではない。急に始まったのではなく、何かがあってから少しずつ積み重なってきた状態だ。「一ヶ月ほど」という言葉は、正確ではないかもしれない。もっと長い可能性もある。人は自分の不調の始まりを、少し後ろ倒しに認識することが多い。本当はもう少し前から始まっていたが、それを認識した時点を起点にする。つまり実際はもっと長いかもしれない。


「夜も出ますか」


「まあ……そうですね」


「朝の方が多いですか」


男はすこし考えた。「明け方が多い、気がします」


「そうですか」


遥はそれ以上聞かなかった。男は少し不思議そうな顔をした。もっと何かを言われるかと思っていたのかもしれない。薬を処方するでも、診断を告げるでも、心配するでもない反応に、少し拍子抜けしたように見えた。


「……何かわかるんですか」


男の方から聞いてきた。


「まだわかりません。観察しているところです」


「観察」


「えと、はい。職業病みたいなものです」


男は少し黙った後、また正面を向いた。それで終わりだった。でも、歩き去る足が少しだけ遅かった。扉の前に戻っても、すぐに背を向けなかった。二、三秒、廊下の方を向いたまま立っていた。


何かを言おうとして、止めた。


遥は壁に戻り、座った。急がなくていい。ここで大事なのは、相手が「もっと話してもいいかもしれない」と思える余地を残すことだ。こちらが先に全部埋めてしまわないこと。


昼過ぎ、別の衛兵が食事を持ってきた。今日はスープがついていた。温かかった。手のひらに椀を持ったとき、じわりと熱が伝わって、遥は少しだけ目を閉じた。


温かいものって、いいな。


単純なことだった。でも、石床と冷たい空気の中にいると、温度の有難さが骨身に染みる。スープは薄かったけれど、飲み終わる頃には体の芯が少し緩んだ。遥はゆっくりと飲みながら、男のことを考えていた。彼は毎日ここに来る。長い時間、扉の前に立つ。その間、何を考えているのだろう。何も考えないようにしているのかもしれない。何も考えないことが、今の彼にとっての防衛手段かもしれない。感情を動かさないこと。音に反応しても、すぐに落ち着かせること。それを繰り返して、三年間生きてきたのかもしれない。でもそれは、体を少しずつ消耗させる生き方だ。


夕方、また男が来た。今日も定位置に立つ。


遥は何も言わなかった。でも、男の方から一度だけ、こちらを見た。遥と目が合う。男はすぐ視線を外した。でも、今日は遥の方を向く時間が、少し長かった。


明日は、何も言わなくていい。ただいる。


次の一手は、急かすことではない。間を置くことだ。信頼は押して作るものではなく、引いて育てるものだ。


夜中、また咳の音がした。一回、二回。


遥は暗がりの中で目を開けて、天井を見た。石の上から、外の風の音が微かに届く。昼間は気づかなかった音だ。夜の静けさが、それを運んでくる。


今夜も眠れていないのかもしれない。


でも、今日は声をかけられた。それが大事なことだった。


今日の会話を、遥は頭の中で整理した。「一ヶ月ほど」という答えは、遥が予想した範囲の中にあった。それより驚いたのは、男が「何かわかるんですか」と自分から聞いてきたことだった。問診では、患者が自分から「教えてほしい」と動く瞬間が、変化の始まりを示すことがある。まだ何かを言うには早い段階だが、問いが来た。それを遥は静かに受け取った。焦らない。急がない。次に話せる日まで、ここにいる。


次話:「三十センチ、近い」

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