第二話「目の下の影」
残り五十八日。
遥は心の中に、小さなメモを作ることにした。
名前はまだ知らない。でも、観察できることは観察する。精神科の問診でいちばん重要なのは、患者が言う言葉ではなく、言わないことと、体が示す状態だ。
*咳:乾いた単発の咳。一日に三〜五回。明け方と夜に多い。
睡眠:目の下の影が濃い。三日間、変わっていない。急性ではなく、継続的な睡眠不足だ。
眼の動き:扉の方向に常に意識が向いている。廊下を誰かが歩くたびに、視線が動く。会話中も、周囲の音に反応する。
姿勢:直立を崩さないが、肩に力が入っている。腕は常にやや前に出ており、何かあればすぐに動ける構えを取り続けている。
過覚醒。戦場経験者に多い。あるいは、暴力的な環境に長期間いた人間に見られる状態。
遥はそこで考えを止めた。
決めつけない。まだ仮説の段階だ。
三日目の夜、事件があった。廊下の奥でどこかの扉が重く閉まる音がした。低い衝撃音。それだけだった。でも男は、その瞬間に剣の柄に手を当てた。意識的ではない。反射的な動きだ。自分でも気づいていないかもしれない。
遥は息をひそめて、その動きを見ていた。
男はすぐに手を戻した。何事もなかったように、正面を向く。でも呼吸が、一瞬だけ乱れていた。胸が二度、急いで上下した。
音に対する過剰反応。驚愕反応の増強。
頭の中でリストが更新される。
翌朝、男の顔を見て、遥は確信を深めた。昨夜よりさらに目の下の影が濃い。眠れなかったのだろう。あの音の後、ずっと起きていたのかもしれない。
食事を運んできたのは別の衛兵だったので、遥は直接話せなかった。でも、男が担当する夕方の時間、遥は鉄格子近くに座って、ただそこにいた。何かを言うつもりはなかった。ただ、存在することを知らせる。
治療の前段階は、信頼だ。信頼の前段階は、安心だ。ここにいる人間は怖くない、と感じてもらうこと。それだけ。
男はたまにこちらを見た。目が合うと、少し視線を逸らす。でも、今日は三秒くらい、視線が止まった。昨日は一秒だった。
小さな変化だ。でも遥には、変化として見えた。
夜、石床の上で遥は考えた。ここには何もない。薬もない。検査道具もない。紙も鉛筆も許可されていない。使えるのは、言葉だけ。言葉と、時間と、距離感だけ。
牢の夜は長かった。外の光が全くない。松明が消えれば、完全な暗闇だ。最初の夜は、その暗さに少し息が詰まった。でも三日も経つと、慣れた。暗闇も、石床の冷たさも。体が記憶していく。遥は毎夜、背中に石床の硬さを感じながら目を閉じた。眠れる夜もあった。眠れない夜もあった。でも目を閉じることはやめなかった。眠れなくても、横になっている方が体は休まる。それも、前世で患者に伝えていたことだった。
前世ではそれで足りないことが多かった。薬がなければ改善しない症状がある。入院が必要なケースがある。専門的な手技が必要な場面がある。でも基本はいつも同じだった。話を聞くこと。判断しないこと。逃げずにいること。
ここでも、それはできる。
松明が揺れる。男の影が壁に大きく映る。遥は目を細めて、その影を見た。
壁に背を預けたまま、遥はこの牢のことを考えた。石造りで、光が少ない。松明の油が切れると、完全な暗闇になる。そういう場所に長くいると、感覚が変わってくる。前世の知識では、視覚刺激が少ない環境に長期間置かれると、時間感覚が歪むことが知られている。男は毎日ここに来て、何時間もここに立つ。この閉じた空間が、彼の体に何をしているかを考えた。もしかすると、戦場の暗さと似た何かが、この牢にあるのかもしれない。それが症状を維持してしまっている可能性もある。
六十日のうちの二日が終わった。まだ五十八日ある。
次話:「一ヶ月ほどです、と」*




