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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第一話「六十日あれば、いい」

残り六十日。


翌朝、別の衛兵が巻物を携えてやってきた。読み上げる声は、事務的だった。


「アネット・クロイス。反逆罪および不敬罪により、王国法廷の審決に基づき、本日より六十日後に死刑を執行する。なお期間中の処遇については——」


残りは聞かなかった。


六十日。


遥は静かに、その数字を受け取った。恩赦を申請する気にはなれなかった。冤罪の証明を試みる気にも。ゲームのシナリオ上、アネットは処刑される。確証はない。でも、変えられる確率を計算するより先に、六十日でできることを考えていた。


衛兵が退室した。昨夜から扉の前に立つ男——交代制だと聞いた——が、また所定の位置に戻る。


遥は鉄格子に近づいて、横顔を見た。


昨夜より少し明るい。朝の光が石壁を白く染めていた。男の頬に、うっすらと朝の色が当たっている。やはり、目の下の影が濃い。昨夜つけた印象と変わらない。睡眠不足。眼の動きが速く、扉の方に常に意識が向いている。


過覚醒。常にどこかから何かが来るような感覚で生きている人だ。


「衛兵さん」


遥は静かに声をかけた。男が振り返る。眉が少し上がった。「なんですか」と短く返す。


「交代制と言っていましたね。何人でまわっているんですか」


「……三人です」


「そうですか。ありがとうございます」


それだけで、遥は話を止めた。押しすぎない。初日に話しかけすぎると、むしろ距離が開く。情報は充分だった。三人でまわる。つまり、この男は六十日間、繰り返しここを担当する。接触できる機会は十分にある。


昼前、男がまた咳をした。今日は二回。短い。でも乾いた質は変わらない。


一ヶ月以上続いている咳かもしれない。あるいはもっと長い。


前世での経験から、咳の質というものは医師として自然に耳に入るようになっていた。湿った咳と乾いた咳では意味が違う。感染症由来の咳と、緊張性の咳では、対応が変わる。この男の咳は乾いていて、単発で、不規則だった。発熱がある様子はない。顔色も、感染症で青白くなる色ではない。これは体の咳ではなく、体に蓄積した緊張が出ている咳かもしれない。睡眠が足りていない人間の体は、様々な場所で悲鳴を上げる。咳はその一つだった。


遥は壁に背を預けて、天井を見上げた。石造りの天井。松明の煤で黒く汚れている。ここにどれだけの人間が収監されたのだろう。どれだけの絶望が、この壁に染みているだろう。


でも、今ここにいるのは私と彼だ。それだけを考えよう。


午後になると、光の差す角度が変わった。石の隙間から漏れた光が、床を細く横切る。その線が少しずつ動くのを、遥はぼんやりと眺めた。時間の経過を知る手段は、それくらいしかなかった。


夕方、男がまた立つ。遥は鉄格子越しに、小さな声で言った。


「今日の食事は、取れましたか」


男が止まった。振り返る。少し時間が経ってから、「……はい」と答えた。


それだけだった。


でも、遥には充分だった。答えてくれた。それが最初の一歩だ。問診の始まりは、いつだってそこから。相手が言葉を返してくれるかどうか。その一点に、すべてが掛かっている。


「今日の食事は取れましたか」は、遥が患者に最初に聞く問いだった。食事という具体的で小さな問いから始めると、人はまだ話せる。


「そうですか。よかった」


遥は微笑んで、鉄格子から離れた。男は何も言わなかったけれど、背中が少しだけ、ほぐれた気がした。


石床に座り直しながら、遥は今日の変化を整理した。食事を取れた、と答えた。声に緊張はあったが、拒絶ではない。それだけで今日は十分だった。


六十日あれば、いい。


次話:「目の下の影」

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