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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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プロローグ「職業病だ、と思いながら」

「ここは、どこだろう。」


石の床。冷たい。体が重い。首元に違和感がある——ああ、首を絞められたんだった。


ゆっくり起き上がると、鉄格子。煤けた壁に誰かの爪痕が残っている。松明の光。


扉の前に、甲冑を着た男が立っていた。その瞬間、記憶が繋がった。


「——あのゲームだ」


アネット・クロイス。悪役令嬢。断罪されて、処刑される。確かそう書いてあった。柏木遥、精神科医、二十八歳。前世でやった乙女ゲームだった。二周したと思う。攻略情報を全部読み込んだわけではないけれど、アネットが最終的に処刑されることは知っていた。冤罪の可能性もシナリオ上では示唆されていた気がするが、詳しくは覚えていない。そこまで深追いするほど好きな作品でもなかった。


男が微かに咳をした。乾いた、苦しそうな音。反射的に遥は耳を澄ませた。


いつから咳が続いているんだろう。夜眠れているか。


職業病だ、と思いながら。死刑まで何日あるかより先に、それを考えていた。


首元の違和感は、少しずつ薄れていく。代わりに、石床の冷たさが膝から上へ染みてきた。体を動かしてみると、あちこちが鈍く痛む。打ち身か、擦り傷か。連行される際に抵抗したのかもしれない。アネットとしての記憶は断片的で、まだうまく繋がらなかった。


牢の中は静かだった。松明の燃える音だけがある。火が揺れるたびに、男の影が壁を渡る。甲冑の継ぎ目。腰の剣。そして——時折わずかに動く肩。


咳だけではない。肩が上がっている。呼吸が浅い。


精神科医としての観察は、どうしても止まらなかった。たとえ自分が死刑囚でも。


前世でのことを思い出した。柏木遥は、精神科クリニックに勤めていた。木造の小さなビルの二階。窓からは交差点が見えて、昼間はよく車の音がした。毎週同じ曜日に来る患者がいた。毎回違う顔で来る患者がいた。薬が効いた患者もいた。なかなか効かない患者もいた。治っていく人を見送ることが好きだった。でも、治っていく前に来なくなる人の方が、心に残った。来なくなった理由がわからないことが、ずっと引っかかっていた。あの人は今、どこにいるのか。あの引っかかりが、この仕事を続ける理由の一つだったかもしれない。


逃げようとは、思わなかった。冤罪かどうかを確かめようとも、思わなかった。ゲームのシナリオで決まっているなら、一人の転生者が覆せるかはわからない。それを試みることに残りの時間を使うより——


男がまた咳をした。今度は少し長く続き、苦しそうに途切れた。


夜中のこんな時間に、これだけ咳が出る。発熱があるかもしれない。睡眠障害から来る免疫低下の可能性もある。いずれにせよ、体が限界に近い状態だ。


遥は膝を抱えて、男の背中を静かに見た。


名前も知らない。身分も知らない。この牢に何年いるかも、知らない。


でも一つだけ、わかることがある。あの咳。あの目の下の影。あの肩の緊張。これは突然今日から始まったものではない。長く積み重なってきたものだ。そしてそれは、誰かに気づいてもらえていなかったものだ。でも——六十日、できることがある。


それだけでよかった。


牢の外はまだ深く暗かった。夜明けには遠かった。遥は壁に背を預けて、目を閉じた。耳だけを、男の次の咳のために開けたまま。


翌朝、扉の隙間から薄い光が差し込んだ。男は交代していた。別の衛兵が立っている。体格が違う。咳はしていない。遥は静かにパンと水を受け取り、礼を言った。衛兵が少し目を丸くした。死刑囚が礼を言うとは、思っていなかっただろう。


夕方、昨夜の男が戻ってきた。扉の前に立ち、視線を正面に向ける。遥は鉄格子越しに彼の横顔を見た。二十代後半か。目の下に薄い影がある。眼の動きが少し速い。過覚醒の兆候かもしれない。


体格は標準的だった。肩幅が広く、腕が長い。長く剣を握っていた人間の手をしていた。でも今、剣を握っていないときも、指先に力が入っている。こぶしを軽く握ったまま、ぶら下げているような持ち方。緊張が解けない体だ。眠れない夜が続くと、体はそういう状態になる。筋肉が休み方を忘れる。休もうとしても、次の脅威に備えて起きていようとする部分が、消えなくなる。


咳は今夜も出るだろうか。そう思いながら、遥はパンの残りを口に運んだ。質素な夕食。味は薄い。でも、別に構わなかった。


今夜も観察しよう。急がなくていい。


六十日、ある。


次話:「六十日あれば、いい」

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