第八十六話「裁定」
残り七日。
書面は昼前に届いた。
財務院の印を捺した封書を、馬上の使いが門の脇でゲオルグに手渡す。受け取りの署名を求められて、老医師は震える指で自分の名を書いた。使いはそれきり馬首を返して、来た道を戻っていく。覆るか覆らないかを告げに来た者の顔ではない。ただ紙を一枚置いていく者の顔だった。
ゲオルグは診察室の机で封を切った。
テスはその傍らに立っていた。荷造りの済んだ部屋はがらんとして、声がよく響く。老医師が紙を開く乾いた音だけが、しばらく続いた。窪んだ目が文面を上から下へたどっていく。一度上に戻って、また下へ。二度、読んだ。
「閉鎖は」と、ゲオルグが低く言った。「予定どおりだ」
テスはその言葉を聞いた。
覆らなかった。読み直されていた報告書は王の手のもとで読まれ、それでも閉鎖は退かない。薄氷の上を渡っていた院内の期待が、いまその一行で底まで割れる。テスはそれを誤魔化さなかった。胸の奥に、覆ってほしかった、と思う声が確かにある。
「ただ」と、ゲオルグが続けた。「機能の一部を王立救護所へ移す、とある」
老医師は紙の、ある一段に指を置いた。
「困窮した者の診察の記録。経過の観察。それを救護所が引き継ぐ。建物は閉じる。けれどここで診られていた者が、行く先を失わないように」
テスはその指先を見ていた。
「それから」と、ゲオルグの指が次の段へ移った。そこで止まった。「救護所から人が要る、と。三十年分の患者の経過を知る者が。引き継ぎの実務に」
老医師はその一行を長く見ていた。
温情ではなかった。文面はどこまでも事務的だった。移送費を再計算した結果、機能を引き継ぐ方が、取り壊して捨てるより安い。診た者の経過を知らぬまま引き継げば、混乱してかえって金がかかる。だから知る者が要る。突き詰めれば、その計算の言葉だった。数字が合っていたから、こうなった。憐れみではない。
「……仕事か」と、ゲオルグが言った。
一言だった。
それ以上は言わなかった。喜びでも安堵でもない。三十年診てきた場所が閉じる、その同じ紙の中に、引き続き要る、と書かれている。その二つを一度には受け取れない。問いでも答えでもないその四文字に、落胆とわずかな救いが混ざって沈んでいた。
テスは何も言わなかった。
よかったですね、とは言えなかった。閉じるのだ。建物は覆らない。寝台も薬棚も戻らない。この部屋も取り壊される。それを引き継ぎの一行が帳消しにするわけではなかった。けれど——三十年診てきた経過が要る、と書かれていた。捨てるのではなく、続けて使うために。ゲオルグの三十年は、数字の上でも捨てられなかった。
「テス」と、ゲオルグが言った。
「はい」
「私は医者を辞めるのだと思っていた。建物が閉じれば。けれどこれは辞める話ではないな。場所が変わるだけだ。診てきた者の経過を、別の場所へ運ぶ」
目が、机の上の褪せた感謝状に落ちた。
「運ぶ者が要る。私でいいのか、とは思う。けれど知っている者は、私しかおらん」
テスは頷いた。
院の方で、人の声がした。書面が届いたことを女たちが聞きつけたのだろう。覆ったのか、と問う声と、いや、閉じるのだ、と告げる声が入り混じる。けれどその後に、救護所が引き継ぐらしい、という声が低く続いた。
ゲオルグは感謝状を机に置いたまま、しばらくそれを見ていた。
それから立ち上がった。診察室の窓から、移送を待つ木箱の山が見えた。閉じる場所と、運ばれる中身。老医師はその両方を目に入れて、深く息を吐いた。手は、止まっていなかった。窓の桟に置いた指が、わずかに力を込めていた。
「七日だ。あと七日で、ここは閉じる」
その声に、もう底の抜けた響きはない。重さは残っている。けれど立っている者の重さだった。テスはその背中を見ていた。よかった、とは思わない。けれど悪いだけでもなかった。閉じる場所の中で続いていくものが、紙の一行に書かれていた。
次話:「笛の音」




