第八十五話「読み直される報告書」
残り十日。
その知らせはフォルクが持ってきた。
監査の最後の用件だという。けれど男の様子が、いつもと少し違っていた。帳面を抱える手が几帳面なのは変わらない。けれど門をくぐる足が、いつもより速かった。ゲオルグに用件を告げる前に、男は一度、短く息を整えた。
「局長の再計算が」とフォルクは言った。「終わりました」
ゲオルグが応対に出た。テスは廊下で、運び出しの済んだ薬棚の跡を拭いていた。その手が止まる。
「結果は」とゲオルグが低く聞いた。
「移送費の積算に、二か所、前提の誤りがありました。建物を取り壊す費用が過大に見積もられていた。逆に、機能を別の場所へ引き継ぐ費用が過小に。局長がそれを修正しました」
フォルクの声には、奇妙な硬さがあった。
「私の計算でした。規定の式には則っていた。けれど入れる数字が違っていた。局長が三度確認して見つけた。私が見落としたものを」
テスはその横顔を見ていた。
数字を信じる男が、その数字の誤りを認めている。屈辱ではなく、ただ事実として。男の背筋はまっすぐだった。けれどその目には、前にはなかった何かが宿っていた。揺れ、ではない。問い、のようなものだった。
ゲオルグが身を硬くした。
「それで、閉鎖は」
「わかりません」とフォルクは正直に言った。「再計算は財務院の上へ上がりました。局長が上申した。施療院の報告書も添えて」
「報告書」とゲオルグが繰り返した。
「現況の記録です。この院でどんな患者がどう過ごしているか。私が目録のついでに書き留めました。眠れなかった患者が眠れるようになった、という記録も含まれています」
フォルクが、それを書いていた。
帳面に載らないと思っていたもの。怪我の治った男が水を一杯飲んで帰る昼の、その続き。この男はいつのまにか、それを自分の言葉で書き留めていた。眠れなかった患者が眠れるようになった、と。
「その報告書が」とフォルクは続けた。「陛下のもとへ行きました」
「陛下の」とゲオルグが声を落とした。
「ええ。閉鎖を裁可されたのは陛下です。一度裁可されたものが差し戻されることは、めったにありません。けれど」と、男は言葉を選んだ。「今回は差し戻されずに読み直されている、と聞きました。財務院の上の者がそう言っていました。陛下が報告書を机に置いたまま、退けずに読み直しておられる、と」
ゲオルグは何も言えなかった。
テスは薬棚の跡を拭く手を止めたまま、その言葉を聞いていた。
——読み直す王。
それ以上は続けなかった。続ければ、知っているはずのない記憶へ踏み込む。報告書を退けるしかできなかった人が、いまは退けずに読み直しているという。その変化の四年後を、テスはここで聞いていた。けれどそれを、誰にも言えなかった。
「期待は」とフォルクは慌てたように付け加えた。「させられません。読み直されているからといって覆るとは限らない。数字が合っていれば、閉鎖は予定通りです。私はそれをお伝えしに来たのではありません。ただ、再計算が終わったという事実を」
「わかっている」とゲオルグは言った。
けれどその声には、わずかな震えがあった。
フォルクが帰ったあと、施療院の中はざわついた。
荷造りを手伝っていた近所の女たちが聞きつけて、口々に話した。覆るかもしれない。陛下が読み直しておられる。声には期待が滲んでいた。けれどそれは薄氷のようだった。誰かが口に出すたびに、別の誰かがしっ、とたしなめる。望みすぎれば、叶わなかったとき、もっと苦しい。皆それを知っていた。
テスはそのざわめきの中に立っていた。
煽りはしなかった。覆ります、とは言わない。覆るとは誰も言っていない。読み直されている、というだけだった。その先に何があるかは、誰も知らない。テスは薬棚の跡を拭き終えて、雑巾を固く絞った。
ゲオルグが診察室の机の前に座っていた。
引き出しの手前に、あの朝置き直した褪せた感謝状がある。老医師はそれを見ていた。読み直す、という言葉を聞いたばかりの目で。手は止まっていた。けれどその止まり方は、昨日までとは少し違って見えた。
夜、ミオが椅子に座っていた。
診察室の隅の、脚の短い椅子。少女は膝を揃えて座っていた。院内のざわめきが、まだ遠くで続いている。少女はその音を聞いているのかいないのか、ただ静かに座っていた。テスはその隣に立った。声はかけなかった。覆るかもしれない、とは言わなかった。
閉鎖が覆るとは、誰も言わない。けれど退けられたはずの報告書が、いまどこか遠くの机の上で読み直されている。その知らせだけが、声をひそめたまま院の中を巡っていた。テスはミオの隣で、その夜をただ過ごした。
次話:「裁定」




