第八十四話「診てきた人は、残ります」
残り十七日。
茶は淹れた夜のうちに、半分しか飲まれなかった。
残りは翌朝に持ち越した。ゲオルグはひと晩、抱えたものを抱えたまま朝を迎えた。診察室の机に向かい合って、二人は座っていた。机の上に昨日の感謝状が、まだ置かれたままだった。褪せた文字を朝の光が薄く照らしている。
「昨日の続きを」と、テスは言った。
ゲオルグが顔を上げた。窪んだ目がテスを見た。昨夜、底を晒したことを恥じているような、けれどもう隠す気力もないような、そういう目だった。老医師は何も言わず、ただ聞く姿勢を見せた。
「先生は、閉鎖されたら何も残らない、と仰いました」
「ああ。言った」
「建物は残りません。寝台も薬棚も運び出されます。この部屋もいずれ取り壊される。それは本当です。私はそれを覆せません」
ゲオルグの肩がわずかに下がった。
「けれど」とテスは続けた。「先生が三十年診てきた人たちは、残ります」
老医師がテスを見た。
「人は、建物の中にだけいるのではありません。先生に診てもらった人は、ここを出てそれぞれの場所で生きています。眠れるようになった人。痛みが引いた人。帰る家を失って、それでもまた歩き出した人。その人たちの中に、先生は残っています」
「残る」とゲオルグが低く繰り返した。「どこに残るというのだ」
テスは少しのあいだ、言葉を選んだ。
ダンテのことが頭に浮かんだ。元兵士の男。酒なしで眠れなかった男が、いまは水を一杯飲んで帰る。飲まなかった夜を指で数える。あの男の中に、施療院が残っている。もう一つ、浮かぶ顔があった。慎重な足音の、衛兵隊長。眠れているか、と部下に聞いて回るという、あの男。けれどそれは言えない。テスがその人を知っている理由を、説明できないからだ。その顔は胸の奥にしまった。
「ダンテさんを、覚えておいでですか」
「あの、酒臭い男か」
「あの人はいま、飲まなかった夜を数えています。飲んだ夜は数えません。一つ、二つと指で数えて、私に見せます。あの数え方は誰かが教えたものです。ここで。この施療院で」
ゲオルグは黙っていた。
「ミオも、先生にだけは短い言葉を返していました。芋が好き、と。あの子が声を出せる相手が、この世に二人だけいた。その一人が先生です。あの子がいつかどこかで、誰かにまた声を返せたら——それは先生がここで、あの子に声を返させた、その続きです」
老医師の指が、机の上の感謝状に触れた。
「私が診た人の中に」とゲオルグはゆっくりと言った。「私が残る、と」
「はい。先生が誰かを診たとき、その人の中に先生の声が入ります。眠れているか、と聞いた声が。痛むか、と聞いた声が。それは消えません。建物がなくなっても。先生がいつかいなくなっても。診られた人の中に、医者は残ります」
しばらく、ゲオルグは動かなかった。
窓の外で、荷馬車が木箱を積む音がしていた。施療院は少しずつ空になっていく。けれど診察室の中だけは、その朝、時間がゆっくりと流れていた。古い紙の匂いと、淹れ直した茶のほのかな湯気の匂いが混ざっていた。
「テス」と、ゲオルグが言った。
「はい」
「お前はいつから、そんな話し方をするようになった」
テスは答えなかった。ただ、わずかに微笑んだ。
ゲオルグはそれ以上問わなかった。問えば答えにたどり着いてしまう。たどり着かない方がいいこともある。老医師はそういう人だった。目をもう一度、感謝状に落とした。それから深く息を吐いた。
「……そうかも、しれんな」
全快ではなかった。
声はまだ重かった。明日も手は止まるだろう。三十年の重さがひと晩で消えるはずもない。けれど老医師はテスの言葉を半分だけ受け取った。残りの半分はまだ受け取れない。それでいい、とテスは思った。半分でも受け取れたなら、それは底の抜けた器にひとしずく戻ったということだった。
ゲオルグが湯呑に目を落とした。
「茶が、冷めているな」
「淹れ直します」
立ち上がって厨房へ向かう。竈の火がまだ熾っていた。湯を沸かし直すあいだ、背後でゲオルグが机の端の布包みを解き、一枚を束に戻して、その束ごと引き出しのいちばん手前にそっと置き直す音がした。捨てる場所ではなく、すぐ取り出せる場所に。テスは振り返らない。竈の火に、薪を一本足した。
次話:「読み直される報告書」




