第八十三話「三十年は何だったのか」
残り十八日。
移送の荷造りが始まっていた。
印のついた品を木箱に詰める。寝具を畳み、薬瓶を藁で包み、薬研を布でくるむ。施療院は日ごとにがらんとしていった。壁から薬棚が一つ運び出される。床にその四角い跡だけが白く残った。三十年そこにあったものの形が、埃の濃淡になって床に焼きついていた。
ゲオルグはその日、机の周りを整理していた。
診察室の、古い机。その引き出しには三十年分の雑多なものが詰まっている。色の褪せた処方の控え。折れた羽根ペン。誰のものとも知れない小さな木彫りの人形。老医師はそれを一つずつ手に取っては戻していた。捨てるでも箱に詰めるでもない。ただ手に取って、見て、戻す。手がよく止まった。
テスは薬瓶を藁で包みながら、その背中を見ていた。
「先生。お茶をお淹れしましょうか」
返事はなかった。
ゲオルグは机の端の、布に包まれた束から一枚の紙を抜き取っていた。古い感謝状だった。文字が褪せている。老医師はそれをしばらく見ていた。それからその紙を束に戻そうとして、手が止まった。戻せなかった。紙を持つ指がわずかに震えていた。
「三十年だ」と、ゲオルグが低く言った。
テスは藁を包む手を止めた。
声を荒げてはいなかった。怒りでもなかった。ただ底の抜けた、静かな声だった。
「三十年、ここにいた。戦が終わって、誰も来手のないこの外れの施療院に。私が来たとき、屋根は半分落ちていた。私が直した。一枚ずつ瓦を載せ、寝台を組み、薬棚をこの手で削った」
テスは何も言わなかった。
「患者が来た」とゲオルグは続けた。「戦で心を病んだ者。手足をなくした者。帰る家を焼かれた者。私は診た。眠れない者には眠れるように。痛む者には痛みが引くように。治せない者もいた。それでも診た。三十年ずっと」
老医師の指が感謝状を握っていた。
「それが」と、ゲオルグの声がわずかに揺れた。「閉じられたら、私には何も残らん」
テスはその言葉を聞いた。
反論はしなかった。「そんなことはありません」とも、「先生は立派でした」とも言わない。慰めは決壊を途中で塞ぐ。塞げば底に溜まったものが流れ出る場所を失う。だからテスはただ聞いていた。老医師の言葉が最後まで流れ出るのを。
「私は医者だった。この施療院が私の医者だった。ここの寝台が、ここの薬棚が、ここの患者が。それが私を医者にしていた。それがなくなったら——」
そこで老医師の言葉が途切れた。
その続きをゲオルグは言えなかった。それがなくなったら、自分は何者でもなくなる。医者でない自分を、この人は持っていない。三十年、医者である自分以外を育てる暇がなかった。あるいは育てようとしなかった。すべてをここに注いだ。注ぎ切った。そして空になった器のように、いま閉鎖の前で立ち尽くしている。
「私は」と、ゲオルグはもう一度言った。「何だったのか。この三十年は何だったのか」
問いだった。けれど答えを求める問いではなかった。答えの出ない問い。出ないと本人がいちばんわかっている問い。それを口に出すことしか、いまこの人にはできなかった。
テスは藁の束を机の上に置いた。
老医師の傍らに立った。けれど肩に手を置きはしない。「大丈夫です」とも言わない。ただ隣に立っていた。窓から低い夕日が差し込んで、机の上の褪せた紙を橙色に照らしていた。古い紙の、かすかに饐えた匂いが二人のあいだに漂っていた。
ゲオルグは感謝状を机に置いた。
それから両手で顔を覆った。声は立てなかった。肩がわずかに震えていた。三十年一人で背負ってきた老医師が、いま燃え尽きた器の底をテスの前に晒していた。テスはそれを見ていた。見て、隣に立ち続けた。
しばらく、二人とも動かなかった。
夕日が傾いていく。床の、薬棚のあった四角い跡が影に沈んでいった。診察室の隅で、脚の短い椅子が暮れていく光の中にぽつんと残されていた。ミオの姿はなかった。少女はこの決壊に立ち会わせない。テスはそう決めて、先に寝かせていた。
「先生」と、ようやくテスは口を開いた。
ゲオルグが顔を覆ったまま、わずかに動いた。聞いている、という合図だった。けれどテスはその先をまだ言わなかった。今日は言わない。最後まで聞く。それが今日の、テスの仕事だった。答えは明日でいい。
「お茶を淹れます」とだけ、テスは言った。
立ち上がって厨房へ向かった。竈に火を起こす。湯が沸くのを待つ。背後の診察室から、老医師の深く息を吐く音が聞こえてきた。テスは振り返らなかった。ただ湯が沸くのを待っていた。
次話:「診てきた人は、残ります」




