第八十二話「あの娘、誰かに似ている」
残り二十一日。
ライアンが来たのは午後の遅い時刻だった。
今度は巡回の刻限どおりだった。隊列を連れず、一人で馬を門の脇に繋ぐ。ダンテの経過を見に来た、とゲオルグに告げた。中庭の長椅子にダンテがいた。隊長を見て、男は軽く手を上げる。二人は短く言葉を交わした。眠れているか、と聞いたのだろう。ダンテが指を立てて何か答え、ライアンが頷いた。
それで用は済んだはずだった。
けれどライアンはすぐには帰らなかった。中庭の隅に立って、施療院の方を見ている。テスが井戸端で桶に水を汲んでいる。その手元を、というよりその立ち居全体を、男は少し離れた場所から眺めていた。
テスは気づいていた。
けれど振り返らなかった。いつものように水を汲み、薬草の鉢にそっと注ぐ。ミオが厨房の戸口から半分顔を出して、こちらを見ていた。テスが手招きすると、少女は芋を入れた笊を抱えて井戸端まで運んでくる。テスはその笊を受け取って芋を洗い始めた。少女はその隣にしゃがんだ。
ライアンの視線がミオの上に移った。
九歳の少女。戦争孤児だとダンテから聞いたのかもしれない。男はその小さな背中をしばらく見ていた。それから視線をテスへ戻す。テスとミオ。並んで芋を洗う二人を、男は見比べるように見ていた。
——隊長が、見ている。
テスは手を止めなかった。芋の泥を指で落とし、水で流す。冷たい水が手の甲を伝っていく。ミオがテスのやり方を真似て、小さな芋を不器用に洗っていた。
ライアンがゆっくりと近づいてきた。
「精が出るな」
「日課ですから」
男は芋を洗う二人の傍らに立った。何か言おうとして、言葉を探している様子だった。ミオが見知らぬ大人の気配に身を硬くする。けれど隠れはしなかった。テスの隣でただ芋を握っていた。ライアンはその少女を見下ろしていた。
「この子は」と、ライアンは低く言った。「あんたによく懐いているな」
「そうでしょうか」
「ああ」
それきり、男は口をつぐんだ。
ミオが顔を上げた。隊長の方を見上げる。丸い目が、大人の男の顔をじっと見ていた。ライアンもその目を見返した。短い間、二人は見つめ合った。少女は何も言わない。声は返らない。ただ見ていた。
ライアンの表情がその時、わずかに動いた。
テスは芋を洗いながら、その横顔を視界の隅で捉えていた。男はミオを見ていた。ミオの何かを。けれどそれはミオ自身を見ている目ではなかった。少女を通して、その向こうの別の何かをたぐり寄せようとしている。そういう目だった。
男の唇がわずかに動いた。
「……あの娘、誰かに」
声はほとんど音にならなかった。独り言だった。テスに向けたのではない。自分の中の定まらない何かを、口の中で確かめようとした、その途中の言葉。テスは聞こえなかったふりをして芋を洗い続けた。ミオは首をかしげて隊長を見ていた。
ライアンがふと我に返った。
「いや」と、今度ははっきり口に出した。けれどそれも誰に言うでもなかった。「……死んだ人に似てるなんてのは、失礼な話だ」
そう言って、男は視線を地面に落とした。
テスの胸の奥が一度だけ波打った。顔には出さなかった。男がいま何をたぐり寄せかけて、何を自分で打ち消したのか。それをテスはわかっていた。わかっていて、何もしない。芋の泥を指で落とす。水音だけが続いていた。
「すまん。妙なことを口走った。気にせんでくれ」
「いえ。何も聞いておりません」
男がテスを見た。その言い方にまた何かが引っかかったようだった。けれどそれを追わなかった。追えばまた、根拠のない場所へ踏み込むことになる。男はそれをわかっているようだった。
ライアンが身を引いた。行きかけて、ミオの前で足を止める。
「達者でな」
少女は答えず、ただ見上げていた。男は軽く頭を下げて門の方へ歩いていく。慎重な、左右のわずかに揃わない足音が遠ざかっていった。
テスはその背中を見送った。
途中で男の歩みが一度だけ緩んだ。振り返りはしない。ただ肩がわずかに傾いた。何かを考えるように。それからまた歩き出し、門を出て馬に跨り、夕暮れの道へ消えていった。
ミオがテスの袖を引いた。
テスは少女を見た。ミオは何も言わない。ただ隊長の去った門の方を指さした。あの人は誰、と聞いているのかもしれなかった。テスは少女の頭にそっと手を置く。「もう、行ったよ」とだけ言った。芋を洗う水の音が、また井戸端に戻ってきた。
次話:「三十年は何だったのか」




