第八十話「声の出ない理由」
残り二十四日。
その日、ミオは椅子に座っていた。
診察室の隅の、脚の短い椅子。座ってもいいだけの椅子に、少女は誰に言われたのでもなく腰を下ろしていた。何日もかけて近づき、触れ、引いてきた末の距離だった。膝を揃え、手を膝の上に置いて。テスが薬棚の整理をしているあいだ、少女はただそこにいた。
テスは薬瓶を棚に戻す手を止めなかった。
座ったことに気づかないふりをした。「座れたね」とも、「えらいね」とも言わない。言えば、それは試験の合格になる。次はもっと、と期待が生まれる。だから、何も言わない。今日、椅子に子供が一人座っている。その事実だけを、テスは横目で確かめた。
しばらくして、少女が椅子から立った。
テスの方へ近づいてくる。足音は、ほとんどしなかった。テスは薬瓶を棚に置いて、振り返らずに待った。何か用があるのだろうか。芋のことか、繕い物のことか。けれど、少女は何も言わなかった。声は相変わらず返らない。
少女の手が、テスの手に触れた。
薬棚の縁に置いていた、テスの右手。その上にミオの小さな手がそっと重なった。筆談でも、声でもなかった。ただ、手を重ねた。冷たい、小さな手だった。テスの手の甲の上で、その手がわずかに握る力を込めた。
テスは動かなかった。
手を引かない。声もかけない。「どうしたの」とも聞かない。聞けば、この子は手を引っ込める。テスはただ、その小さな手が重なっているのに任せた。少女は、しばらくそうしていた。手を重ねたまま、テスの顔を見上げて。丸い目が、何かを伝えようとしていた。声にならない何かを。
そのとき、テスはわかった。
わかってしまった。前世の診察室で、声を失った子を何人も診てきた。その経験のすべてが、いまこの小さな手の重みの中に答えを差し出していた。胸の底が冷えていく。
この子が声を失った、その引き金は。
夜、ミオが寝ついてから、テスはゲオルグに聞いた。
「この子は、いつから話さなくなったのですか」と。ゲオルグは暖炉の火を見ていた。手が、また止まっていた。「拾ったときには、もう話さなかった。東部から流れてきた孤児だ。家族を戦で喪った。村ごと焼けて、生き残ったのはあの子だけだった」
「家族を喪った、その朝のことを」とテスは聞いた。「この子は、何か」
ゲオルグは、少しのあいだ黙っていた。
「一度だけ、寝言で」老医師の声が、低くなった。「『おはよう』と。それから、『言わなければよかった』と。うなされて、繰り返していた。意味は、わからん。だが、あの子は声を出すことを恐れている。声を出すと、何か大切なものが消える。そう信じているように見える」
テスは、その言葉を聞いた。
家族を喪った朝、少女は目を覚まして、いつものように「おはよう」と言ったのかもしれない。その直後に村が焼け、家族が消えた。九歳の子の中で、二つは分かちがたく結びつく。おはようの一言が、すべてを奪っていった。そういう呪いのような確信が、少女の喉を塞いでいた。
そこに、もう一つが重なっていた。
この子は、テスとゲオルグにだけ短い言葉を発していた。芋が好き、と。あの、たった一言を。ところが、ある朝、テスが変わった。大人たちの目には「急に大人びた」程度の、わずかな変化。それを、緘黙の子の研ぎ澄まされた感覚だけが捉えた。
それは少女にとって、二度目の喪失だった。
声を出していた相手が、変わってしまった。テスに話していたから、テスが変わった——少女の中で、また二つが結びついた。だから、もうテスにも話さない。少女は、そうやって自分を守った。
「私が、この子の声を、奪ったんです」と、テスは低く言った。
ゲオルグが、テスを見た。
「私が変わったから」とテスは続けた。声が震えそうになるのを押さえた。「この子は、話せる相手を失った。私のせいです。診る側の私が、この子を傷つけた。私が変わったことなんて、この子には関わりのないことだったのに。勝手に変わって、この子の世界をまた一つ壊した」
言葉にすると、それは容赦のない事実だった。
診る側の変化が、診られる側を傷つける。そんなことは、考えたこともなかった。医者が患者を治す。それが自分の役目だと思ってきた。けれど、この子に対しては治すどころか傷つけた。自分が変わったというだけで。
——私は、この子に何もできなかった。
テスは胸の中で、それを認めた。
認めて、なお、隣にいることを選び直した。敗北を認めることと、立ち去ることは別だった。自分がこの子を傷つけた事実から目を逸らさずに、それでも隣にいる。声が戻らなくても、椅子を置き続ける。手が重なるのを待ち続ける。それが、傷つけた者にできるせめてものことだった。
翌朝、ミオは、また椅子に座っていた。
声は出なかった。「おはよう」とも言わない。けれど、少女はそこにいた。テスが診察室に入ると、ミオは顔を上げた。逃げない。隠れない。ただ、見ている。テスは何も言わずに薬棚の前に立った。二人のあいだに声はなかった。
それでも、少女はそこにいることを選んでいた。テスもまた、隣にいることを選んでいた。声の出ないその理由を、テスはもう知っていた。知ったうえで、待つ。治すためではなく、ただ隣にいるために。診察室の窓から朝の光が低く差し込み、脚の短い椅子が、その光の中でわずかに傾いていた。
次話:「数字に出ない収支」




