第七十九話「既視感」
残り二十六日。
巡回は本来、この時刻には来ないはずだった。
衛兵隊の見回りは、午後の遅くと決まっている。けれど、その日のライアンは昼を少し過ぎたころに来た。一人だった。馬を門の脇に繋いで、隊列も連れずに門をくぐってくる。慎重な、左右のわずかに揃わない足音を、テスは洗い物の手を止めて聞いた。
「ダンテは、来ているか」とライアンはゲオルグに聞いた。
「中庭に」
ライアンは中庭へ回った。ダンテが、いつもの長椅子にいた。隊長を見て、男は軽く手を上げた。前のようなばつの悪さは薄れていた。二人は短く言葉を交わした。テスは井戸端から、その様子を半分だけ見ていた。眠れているか、と隊長が聞いたのだろう。ダンテが両手の指を広げて見せて何か言った。飲まなかった夜の数を見せたのかもしれない。ライアンが頷いていた。
それで、用は済んだはずだった。
けれど、ライアンはすぐには帰らなかった。
ダンテとの話を終えて門へ向かう途中、隊長は井戸端の方へ足を向けた。テスのいる方へ。職務の用は、もうないはずだった。けれど、男は来た。テスの数歩手前で足を止めた。
「あんたが、世話をしているのか。ダンテの」
「世話というほどでは。話を聞いているだけです」
ライアンの視線が、テスの上に留まった。
前に来たときは留まらなかった視線だった。あのとき、隊長の目は建物の寸法を確かめ、テスをただの下働きとして通り過ぎた。けれど、今日は違った。男はテスの顔を見ていた。なぜ、と問うような目ではない。ただ、見当のつかないものを確かめようとして見ている、そういう目だった。
「あいつは」と、ライアンは中庭の方へ目をやった。「だいぶ変わった。会うたびに、少しずつだが」
「ダンテさんが、ご自分で変わっているんです」
「あんたは、何もしていないのか」
「飲まなかった夜を、数えているだけです。飲んだ夜は、数えません。それだけです」
ライアンが、わずかに目を細めた。
何かが、その言葉に引っかかったようだった。けれど、それが何なのか、男自身つかめていない様子だった。テスの言い方。問いでもなく、答えを差し出すでもなく、ただ事実を置くような話し方。見当はつかないのに、覚えだけがある。そういう定まらない表情が、隊長の顔をよぎった。
「妙だな」
「妙、ですか」
「いや」と男は、視線を一度地面に落とした。「うまく言えん。あんたの、その——」と言いかけて、言葉を探した。「聞き方、というか。答えを押しつけてこない。だが、放っておくのとも違う」
テスは、何も言わなかった。
男の言葉を最後まで聞いて、ただ頷いた。ライアンは、もう少し何か言おうとした。口を開きかけた。「あんた、誰かに——」。そこまで言って、止まった。誰かに、似ている。その言葉が喉まで来て、男はそれを飲み込んだ。自分でも根拠のないことを言いかけている。そう思ったのかもしれない。男は口を閉じた。
「いや。なんでもない」
テスは、その「なんでもない」を静かに受け取った。
顔には出さない。男がいま何を言いかけてやめたのか、テスにはわかっていた。わかっていて、何もしない。「私は、その人かもしれません」とは言わない。飲み込まれた言葉は消えずに、男の中のどこかに留まるだろう。既視感が芽吹くかどうかは、この人が決めることだ。テスの仕事は、いつもの話し方で、いつもの問いを続けることだけだった。
「眠れていますか」
ふと、口をついて出た。ダンテにいつも隊長が差し出す問い。それを、隊長自身に返してしまっていた。深い意図はなかった。けれど出た瞬間、テスは自分の迂闊を少しだけ悔いた。それは、この人が四年前、牢の中で聞いた問いだった。
ライアンが止まった。
男の表情が、わずかに揺れた。その問いを誰かに向けるのには慣れている。けれど、向けられるのには慣れていない。しかも、いま向けられたその問いは、男の記憶のどこか深い場所に触れたようだった。男はテスを見た。今度は、はっきりと。何かを確かめようとする目で。
けれど、それもすぐに解けた。
「……まあ、今は、眠れている」とライアンは言った。「ありがとう」
それから、男は軽く頭を下げて、門の方へ歩いていった。慎重な足音が、遠ざかっていく。途中で一度だけ、男は立ち止まった。振り返りはしなかった。ただ、何かを考えるように、下げた手が一度握られてほどけた。それから、また歩き出した。
テスは、その背中を見送った。
次話:「声の出ない理由」




