第七十八話「三度確認したい男」
残り二十八日。
フォルクは、その日、一人ではなかった。
午後の早い時刻、財務院の馬車が二台、門の前に止まった。一台目から、見慣れた若い監査官が降りた。けれど、その立ち居が前と違っていた。背筋がいつもより伸びている。帳面を抱える手に、わずかな緊張があった。フォルクは二台目の馬車の方を、窺うように振り返った。
二台目から降りてきたのは、年かさの男だった。
四十をいくらか越えたほどだろうか。仕立てはよいが、華美ではない地味な装い。男は馬車を降りると、まず自分の外套の襟を指で確かめた。位置がずれていないか。一度確かめて、それからもう一度同じところを指でなぞった。
テスは井戸端でその所作を見ていた。
「監査局長です」とフォルクが、ゲオルグにいくらか改まった声で紹介した。「閉鎖案件の、現地確認に。局長自らお越しいただくのは、異例のことです」
ゲオルグが応対に出た。男は丁寧に頭を下げた。「お手間を取らせます」低く、落ち着いた声だった。けれど、どこか慎重さが滲んでいる。言葉を一つずつ置くように話す。間違えないように。
襟をなぞった二度目の指から、テスは目を離せなくなっていた。
——指が。
男はフォルクから帳面を受け取ると、それを指でなぞり始めた。上から、ゆっくりと。数字の列を一行ずつ。一度、最後までなぞって、それから最初に戻った。もう一度、同じ列をなぞる。
確認が三十回を超えていた人。
牢の中で診た。書類一枚に五度も六度も指を這わせ、確かめずにいられなかった人。父の声が頭の中で「一度では足りない」と繰り返していた人。その確認の癖を、テスはこの体の目で初めて見ていた。
けれど、何かが違っていた。
男の指は、確かに三度、同じ列をなぞった。けれど、その三度は追い立てられた確認ではなかった。確かめるというより、検める、という指だった。恐れに突き動かされてではなく、仕事の道具として男はそれを使っている。そう見えた。
——あなたは、それを使えるようになったんですね。
顔には何も出さない。井戸の水を桶に移す手も止めない。男はテスの方を一度も見なかった。かつて「あなたも座ってください」と声をかけた相手がすぐそこにいるとは、思いも寄らないだろう。あの牢で追い立てられるように這っていた指が、いまは検めるために動く。その変化に気づける者がここにいることも、男は知らない。
男は帳面を、しばらく見ていた。
それから、指を一点で止めた。数字の列の、ある行で。男の指が、その行をもう一度なぞった。眉がわずかに寄る。男はフォルクを振り返った。
「この、移送費の積算だが」
「はい」フォルクが姿勢を正した。
「前提を、三度、確認したい。この計算、二か所、合っているかまだ言えない。だが、引っかかる。閉鎖の収支に、引っかかるところがある」
フォルクの顔に、戸惑いが走った。
「局長、その積算は、規定の式に則って——」
「規定の式が正しくても、入れる数字が違えば答えは違う」声を荒げはせず、ただ静かに譲らなかった。「建物を取り壊す費用。それを、別の場所へ移して使い続ける費用と比べた数字。私はこの前提を、もう一度、確かめたい。一度では、足りない」
一度では、足りない。
その言葉を、テスは聞いた。男がかつて頭の中で繰り返していたという、父の声。けれど、それはもう追い立てられた呪いの声ではなかった。仕事の前提を検めるための判断として、男は父の言葉を自分の道具に変えていた。
テスは桶を井戸の縁に置いた。
確認が症状だった人。その確認がいま、閉鎖の数字の誤りの予感を拾おうとしている。管理できている人の、仕事の力として。テスは、それを見ていることしかできなかった。
「持ち帰って、再計算する」男は帳面を閉じた。「結論は出ていない。引っかかっているだけだ。だが、引っかかったものを、そのままにはしない」
ゲオルグが何か言いたげに口を開きかけた。閉鎖が覆るのか、と。男はそれには答えなかった。「期待は、させられない。数字を確かめるだけだ。それが合っていれば、閉鎖は予定通りだ」
男は馬車へ戻っていった。
去り際、男はもう一度、外套の襟を指で確かめた。一度なぞって、それから、もう一度。けれど、三度目はしなかった。二度で男は手を下ろした。馬車に乗り込み、来た道を戻っていく。
テスは、その馬車を見送った。
声はかけなかった。近づきもしなかった。牢で三十回数えた指が、今は三度で止まる。襟を確かめる手は、二度で下りた。その数の変化を、この目で見られた。望むものは、それより先になかった。
水桶を、抱え直す。
厨房の方から、ミオの立てる水音が届いてくる。テスは、その音の方へ歩き出した。
次話:「既視感」




