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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第七十七話「隣にいるだけの椅子」

残り三十日。


テスは診察室の隅に、小さな椅子を一つ置いた。


子供の背丈に合う、低い木の椅子だった。物置で埃をかぶっていたのを見つけてきた。脚が一本わずかに短くて、置くと、かたんと小さく傾く。診察室といっても、ゲオルグが患者を診るための簡素な部屋だ。寝台が一つ。薬棚が一つ。窓辺に、ゲオルグの古い椅子がある。その斜め後ろ、壁際のいちばん隅に、テスはその小さな椅子を据えた。


座らせるための椅子ではなかった。


「座ってごらん」とは言わない。「ここに座りなさい」とも言わない。ただ、そこに椅子が一つある。座ってもいい場所が、ひとつ増えた。テスはミオに、その椅子のことを説明しなかった。説明すれば、それは約束になる。期待になる。九歳の子の肩に期待を載せたくなかった。


最初の日、ミオは椅子に近づかなかった。


診察室を覗くことはあった。戸口から丸い目だけを出して、隅の椅子をしばらく見ていた。けれど、入ってはこない。テスが薬棚の整理をしているあいだ、少女は戸口の柱に半分身を隠していた。テスは気づかないふりをした。気づいて手招きすれば、この子はまた奥へ引っ込む。だから、見ない。ただ、薬瓶の埃を拭き、棚に戻す。それを続けた。


次の日、少女は戸口を一歩跨いだ。


それだけだった。部屋の中に片足を入れて、また戻った。椅子までは、まだ遠い。けれど、戸口の柱より半歩、椅子に近づいた。テスは、その半歩を数えなかった。数えれば、進みを待つことになる。待てば、急く心がまた顔を出す。だから、数えない。ただ、今日も椅子は隅にある。それだけを確かめた。


その日々のあいだ、診察室にはゲオルグがいた。


院長の手は相変わらず、よく止まった。患者の脈を取ろうとして指が宙で止まる。薬を調合しようとして、乳鉢を持つ手が途中で動かなくなる。「三十年は、何だったのか」と口の中でつぶやくことがあった。閉鎖の通達が来てから、その手の止まる頻度は増えていた。一日に、何度。テスは、それを横目で見ていた。


ゲオルグは、ミオが診察室に入ってこようとしていることに気づいていた。


けれど、何も言わなかった。手招きもしない。声もかけない。テスのやり方を見て、倣っていた。「あの子は、どうしている」と一度だけテスに聞いた。「少しずつ近づいています」とテスは答えた。「急がせないでください」と。ゲオルグは、「わかっている」と低く言った。それきり、二人とも椅子のことには触れなかった。


翌々日。


ミオは診察室の中に入るようになった。といっても、戸口の近くの壁にもたれて立つだけだ。椅子は部屋の反対の隅にある。少女は、そこを遠く見ていた。座りたいのか、座りたくないのか。テスにはわからなかった。わからなくて、いいと思った。座る座らないは、この子が決めることだった。テスの仕事は、椅子をそこに置き続けることだけだった。


ある午後、テスが薬草を干していると、診察室でかたんと小さな音がした。


脚の短い椅子が傾く音だった。


テスは手を止めなかった。覗きにも行かなかった。音の正体はわかっていた。ミオが椅子に触れたのだ。座ったのか、ただ手を置いただけなのか、それはわからない。確かめに行けば、この子は立ち去る。だから、行かない。テスは薬草の束を軒の紐に掛け続けた。診察室の方は、それきり静かだった。


夕方、テスが診察室に入ると、椅子はわずかに位置がずれていた。


壁際から、ほんの少し、部屋の中心の方へ。誰かが座ろうとして引いた跡だった。座面に、薄く、温もりのような何かの痕が残っている気がした。けれど、それはテスの思い込みかもしれなかった。ミオの姿は、もうそこにはない。厨房の方で芋を洗う水の音がしていた。


テスは、その椅子を元の位置に戻さなかった。


ずれたまま、置いておいた。少しだけ部屋の中心に近づいた、その位置のまま。明日、この子がまた、わずかに引くかもしれない。あるいは、引かないかもしれない。どちらでも、よかった。椅子は、そこにある。座ってもいい場所が、診察室の隅にできた。それが、今日たどり着いた場所だった。


窓の外で、陽が傾いていく。


ゲオルグが診察室に戻ってきた。ずれた椅子を見て、何か言いかけて、やめた。代わりに、自分の古い椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。手が、また止まっていた。膝の上で、組まれたまま動かない。テスは、その手を見て、それから隅の小さな椅子を見た。止まる手と、近づく椅子。同じ部屋に、二つの時間が流れていた。


次話:「三度確認したい男」

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