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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第七十六話「監査官は数字を信じる」

残り三十二日。


財務院の監査官は、朝のうちに来た。


馬車から降りたのは、若い男だった。年は二十代の半ばだろうか。衛兵の護衛を二人連れ、革の表紙の帳面を几帳面に小脇に抱えている。外套に皺はなく、靴の泥も丁寧に落としてあった。門をくぐる前に、男は建物を一度、端から端まで眺めた。値踏みするのでも、感心するのでもない。ただ、寸法を測るような目だった。


「財務院監査局、フォルクと申します」と男は名乗った。「閉鎖執行に伴う、現況の確認に参りました」


ゲオルグが奥から出てきて、応対した。テスは廊下の拭き掃除の手を止めて、半歩離れた場所でその様子を見ていた。


フォルクは慇懃だった。


言葉は丁寧で、礼を欠くところがない。けれど、その丁寧さは相手をいたわるためのものではなかった。手続きを滞りなく進めるための丁寧さだった。男はゲオルグの返事を待つあいだも、視線を院内に走らせていた。寝台の数。薬棚の段数。竈の大きさ。それらを、帳面の罫の上に細かい字で書き留めていく。


フォルクは帳面を開いたまま続けた。「備品の目録を、作成いたします。移送可能なものと、建物に付随して処分するものとを、分けます。寝台は、王立救護所が引き取る分があるかもしれません。薬研、乳鉢の類は、状態を見て査定します」


「査定」と、ゲオルグが低く繰り返した。


「ええ」帳面から顔も上げない。「老朽の度合いによって、移送の手間に見合うかどうかが変わりますので」


ゲオルグの顔に、一瞬、強張りが走った。三十年、磨いて使ってきた道具だった。それが今、移送の手間に見合うかどうか、という物差しで測られている。テスは養い親の横顔を見ていた。けれど、口は挟まなかった。


フォルクは院内を一巡した。


寝台の数を数え、薬棚を開けて中身を確かめ、窓の建てつけを指で押して試す。動きに無駄がなかった。怒りも、同情も、急ぎもない。ただ、決められた手順を決められた順に、正確に踏んでいく。テスはその背中を、廊下の隅から見ていた。


——この人は、本気で信じている。


閉鎖が正しい、と。数字の上で正しいと。フォルクの動きには迷いがなかった。後ろめたさもなかった。彼にとって、施療院を閉じることは間違ったことではない。財政の数字が、それを示している。だから執行する。その誠実さが、男の背筋をまっすぐに保っていた。


テスは、それに反発しなかった。


閉鎖を執行する側にも、重さがある。命じられた数字を、現場で人の暮らしに突き当てる役目。それを誰かがやらねばならない。フォルクは、その役目を引き受けている一人だった。テスは患者を観察するときと同じ目で、ただその男を見ていた。数字を信じることで、自分の仕事の重さにまっすぐ立っていられる人。そういう立ち方も、ある。


「ここの、奥の部屋は」とフォルクが廊下の突き当たりを指した。「目録に、含まれていませんが」


「住み込みの者の、部屋です」


フォルクは、帳面に何か書き足そうとして、戸口に近づいた。


そのとき、テスは視界の隅で、小さな影が動くのを見た。ミオだった。少女は厨房の方から、その部屋へ続く廊下にいた。フォルクの足音が近づくと、少女は音もなく後ずさり、薪小屋の扉の陰へすっと身を隠した。


息を潜めていた。


知らない大人。帳面を持って、家の寸法を測りに来た男。その男が自分の部屋に近づいてくる。少女は目だけを陰から覗かせて、フォルクの動きをじっと追っていた。フォルクは少女に気づかなかった。気づこうともしなかった。彼の帳面に、九歳の少女が住んでいるという事実は記載されていない。


「住み込みは、何名ですか」とフォルクが聞いた。


「二名です」とゲオルグが答えた。下働きの娘と、孤児の少女。けれど、名は言わなかった。


フォルクは「二名」と帳面に書いた。それきり、その奥の部屋には入らなかった。寸法だけを、戸口の外から測って次の項目へ移っていった。薪小屋の陰で、ミオが息を吐くのが、テスにはわかった。


正午前に、目録の第一日分が終わった。


フォルクは帳面を閉じた。「本日は、ここまでといたします。移送可能と判断した品には、後日、印をつけにまいります。ご協力、感謝いたします」


礼を述べて、男は門へ向かった。


去り際、フォルクはもう一度だけ建物を振り返った。値踏みでも、名残でもない。記載漏れがないかを確かめる目だった。すべてが帳面の中に正確に収まっているかどうか。それを見届けて、男は満足げに小さく頷いた。馬車が、来た道を戻っていく。


テスはその馬車を、門の内側から見送った。


数字を信じる男が来た。悪意はなく、誠実で、正確だった。その正確さが、いま、施療院を一つずつ帳面の項目に変えていく。テスは、それを止める術を持たなかった。ただ、薪小屋の陰から出てきたミオの傍らに、黙って立った。少女は、まだ戸口の方を見ていた。


次話:「隣にいるだけの椅子」

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