第七十五話「話さなくていい時間」
残り三十四日。
ミオは、まだ話さない。
テスが覚醒して何かが変わったことを、この子だけが見抜いた。唯一、短い言葉を交わせた相手を、テスは自分の変化で一度遠ざけてしまった。あれから、距離は少しずつ詰まってきた。半歩後ろを歩く。水桶を寄せる。けれど、声は戻っていない。芋が好きだと言ったあの短い言葉も、まだ返ってこない。
テスはこの子に、構えを立て直すことにした。
話させようとしないこと。それが、テスの決めたことだった。前世の診察室でも、緘黙の子を何人か診た。言葉を引き出そうと急ぐほど、子供は奥へ引っ込む。声を出すことが試験になってしまう。だから、しないこと。問わないこと。待つことを仕事にすること。それがいちばん難しい仕事だということを、テスは知っていた。
その日、テスは繕い物をしていた。
施療院の、擦り切れた敷布。ほつれた縁を、針で縫い直していく。中庭に面した軒下に低い椅子を出して、日の差すうちに運針を進める。布を引く音と、糸を通すかすかな音だけが、そこにあった。
ミオが、いつのまにか隣にいた。
少女は何も言わずに、テスの椅子の少し横の地面に、膝を抱えて座った。繕い物を見ている。針が布をくぐるたびに、丸い目がその動きを追う。テスは、少女がそこにいることに気づかないふりをした。気づいて何か言えば、この子はまた警戒する。何も言わず、隣にいる。それが続けばいい。
「この敷布はね」とテスは針を動かしながら、誰にともなく言った。「もう、何年も使われてるの。縁が弱くなってる。でも、まだ使える。縫い直せば」
ミオは答えない。
それでよかった。テスの言葉は答えを求めていなかった。声が軒下にある。それだけのものだった。少女の体がわずかにテスの方へ傾いているのを、テスは視界の隅で感じていた。逃げる構えは、もう解けている。
少女の帯に、古い笛が差してあった。
拾った笛だ、とゲオルグから聞いていた。木でできた素朴な横笛。少女はいつもそれを身につけている。けれど、決して鳴らさない。指先で触れることはある。今も、繕い物を見ながら、もう一方の手が無意識に帯の笛に触れていた。確かめるように。けれど唇には、決して近づけない。鳴らせば何か大切なものが消えると信じているかのように。
テスは、その手を見なかった。
笛のことには触れない。鳴らしてごらん、とも言わない。それは、この子が自分で鳴らす日まで、誰も触れてはいけない場所だった。
針を進める。
陽が少しずつ傾いていく。残り三十四日。テスの胸の奥で、その数が針の音に混じって低く鳴っていた。施療院は、あと三十四日で閉じる。この軒下も、この敷布も、この子の住む場所もなくなる。閉鎖までの日数を思うと、心が急く。早く、この子の声を戻さなければ。早く、距離を元に戻さなければ。間に合わなくなる前に。
——急いては、ならない。
テスは急く心を、針の手で押さえつけた。
時間がない、という焦りは、いちばん待つことの邪魔をする。急げば、この子はまた奥へ引っ込む。それは、覚醒の朝に一度やった失敗だった。同じ轍を踏むわけにはいかない。残り三十四日だからこそ、急がない。急がないことの苦しさを、テスは自分の仕事として引き受けることにした。待つことと、終わりが近いことと、両方を同時に抱えて、黙って隣に座る。それが、いまのテスの務めだった。
繕いが半分ほど進んだころ。
風が少し冷えてきた。テスは針を一度休めて、肩の力を抜いた。そのときだった。
衣の袖を、何かが引いた。
ミオの手だった。
少女の小さな指が、テスの繕い物をしていた腕の袖口をつまんでいた。強くはない。ほんの、布をひとつまみ。何かを訴えるのでも、引き止めるのでもない。そこに手があることを確かめるだけの、握り方だった。
テスは針を動かさずに、その手を見た。
声をかけなかった。「どうしたの」とも、「何かあった?」とも聞かない。聞けば、この子は自分のした行為に気づいて手を引っ込める。テスはただ、その小さな手が袖をつまんでいるのに任せた。腕を動かさずにいた。冷えた風が、二人の間をゆっくりと渡っていく。
少女の指が、しばらく袖をつまんでいた。
それから、そっと離れた。
何も言わなかった。声は戻らない。ミオは、また膝を抱えて繕い物を見る姿勢に戻った。まるで、今のことなどなかったかのように。けれど、袖口には、つままれたかすかな皺が残っていた。
テスは、その皺を伸ばさなかった。
針を、また手に取った。布をくぐらせる。糸を引く。少女は隣にいる。声は、まだない。けれど、さっき、確かにこの子の手が自分に触れた。届こうとして、届く手前で離した。それは、戻ってきたのではない。元通りになったのでもない。けれど、新しく結び直されようとしている、最初の一糸だった。
陽が、軒の影を長く伸ばしていく。
テスは繕いを続けた。話さなくていい時間が、二人の上を静かに流れていった。
次話:「監査官は数字を信じる」




