第七十三話「桃を選んだ人」
残り三十八日。
果物を持ってくる婦人がいる、と聞いていた。
月に一度、市場の帰りに施療院へ寄って、その月の果物を置いていく。貴族の身なりの婦人で、名は名乗らない。ゲオルグが「ありがたいことです」と毎度頭を下げる。テスはその人に、まだ会っていなかった。来る日が決まっていなかったからだ。
その人は、午後の早い時刻に来た。
門の前に、簡素だが上等な馬車が止まる。降りてきたのは、落ち着いた色の外套をまとった婦人だった。年は四十を少し越えたほどだろうか。供を一人だけ連れて、腕に籠を抱えている。籠の中身は布をかけてあって見えない。けれど近づくと、甘い、熟れた香りがした。
「いつもの、お裾分けです」静かな声だった。「市場で、少し多く求めてしまって」
ゲオルグが奥にいて、手が離せなかった。テスが籠を受け取りに前へ出た。
「ありがとうございます。お預かりします」
婦人が布をめくった。籠の中には林檎が並んでいた。赤いのと、青いのと。その隅に、丸く産毛をまとった果物が、二つ、三つ、混じっていた。
桃だった。
その色が目に入った瞬間、受け取ったばかりの籠が、わずかに重くなった気がした。
旬にはまだ少し早い。出回り始めの走りの桃だ。値の張るものをわざわざ求めて、林檎の隙間に忍ばせている。テスはその桃をしばらく見た。見ているあいだ、耳の奥で別の声がよみがえっていた。鉄格子の向こうの、半月かけて少しずつ言葉を交わした人の声。その人がぽつりとこぼした、たった一つの些細な望み。桃が食べたい、と。
——あの人も、桃でした。
テスはその記憶を、顔には出さなかった。
「桃が、混じっていますね」何気ない確認のように、軽く。
「ええ」と婦人は少し弁解するように。「林檎だけのつもりだったのですが。つい、目に留まって」
「桃は、いい果物です」籠を抱え直す手は止めないまま、テスは続けた。「選んだ人の話が聞けるので」
婦人の手が止まった。
布をかけ直そうとしていたその手が、籠の縁で、一瞬宙に浮いたまま動かなくなった。テスを見るでもない。籠を見るでもない。視線はどこにも定まらず、その言葉が体のどこかに触れたかのように、手の動きだけが止まっていた。
ほんの、わずかな間だった。
婦人は何も言わなかった。なぜ手が止まったのか、本人にもわからない様子だった。眉がかすかに寄る。聞き慣れない調べの曲を、どこかで前に聞いた気がする——そういう種類の、定まらない表情。けれど、それは言葉にならなかった。婦人は自分の止まった手に自分で気づいて、軽く瞬きをした。
「……そう、ですね」少し遅れて、声が出た。「桃は、自分で選ぶとおいしい気がします」
それきりだった。
その言葉の出どころを、婦人自身もたどれてはいないようだった。布をかけ直し、軽く頭を下げて、それ以上は何も言わずに馬車へ戻っていった。供の手を借りて、座席に身を収める。馬車の窓の向こうで、婦人は一度だけ施療院の方を振り返った。何かを確かめるように。けれど、それもすぐに前を向いた。
蹄の音が、道の向こうへ遠ざかっていく。
テスは籠を抱えたまま、それを見送った。
胸の奥が、まだ静かに揺れていた。あの人だと思う心と、口にしてはならないと止める心が、同じ場所でせめぎ合っていた。月に一度、自分で市場へ出て、自分で桃を選べるようになった人。遠回りができるようになった人。その人がいま、選んだ桃を見知らぬ施療院に置いて帰った。誰のために、とも知らずに。
それ以上は、踏み込まなかった。
テスはそれを望まなかった。あの婦人は、自分が選んだ桃が誰の手に渡るかを知らなくていい。テスもまた、自分が誰かを知らせなくていい。届くべきものは、もう届いている。籠の中の、産毛をまとった果物として。それで足りていた。
厨房に戻って、テスはミオに声をかけた。
「桃が、ありますよ」
少女は竈のそばで、芋の皮をむく手を止めて籠を見た。丸い目が桃の色を捉える。けれど、何も言わなかった。手を伸ばしもしなかった。ただ、その果物をしばらく見ていた。
テスは桃を一つ、布で拭いて、ミオの作業台の端にそっと置いた。
「いつでも、食べていいから」
言い足さずに、残りの林檎を籠から移し始めた。少女がそれを取るかどうかは、急がせない。置いておく。それだけが、いまできることだった。
桃の甘い香りが、薄く、厨房に広がっていた。
次話:「眠れた夜として数えていい」




