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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第七十二話「その足音は、知っている」

残り四十日。


衛兵隊の巡回は、午後の遅い時刻に来た。


馬の蹄が、施療院の前の道に止まる。革と金具の鳴る音。三人ほどの隊列が、門の前で歩を緩めた。テスは井戸端で水を汲んでいた手を止めて、その音の方を見た。先頭の一人が馬を下りる。地を踏むその足音が近づいてくる。


歩幅を、テスは数えていた。


数えるつもりはなかった。けれど耳が勝手にその間隔を拾っていた。やや広い歩幅。左右の重さがわずかに揃っていない。地面を確かめるように、一歩ごとに体重を乗せる慎重な歩き方。その足音を、テスは聞いたことがある。一度ではない。来る日も来る日も。鉄格子の向こうの冷たい廊下で。


牢の外に毎日立っていた人の足音だった。


水桶を井戸の縁に置いて、テスは顔を上げた。門をくぐってきた男は衛兵隊の制服を着ていた。隊長の徽章。三十を少し越えたほどの痩せた体。短く切りそろえた淡い色の髪。視線は、まず施療院の建物全体をひととおり確かめるように動いた。出入り口の数。窓の高さ。人の動き。職務の目だった。


その目が、テスの方へは留まらなかった。


当然だった。彼の知っている顔を、テスはもう持っていない。視線は井戸端の娘の上をただ通り過ぎ、テスもそれを何気なく受け流した。胸の奥だけが、静かに一度波打った。


——来た。


その人が、いま、目の前にいる。


「聖アルマ施療院だな」


院長を探すように、誰にともなく確かめる声がした。低く、抑えて、怒りも急ぎもない。その声も、テスは知っている。牢の中で、ほんの数語だけ交わしたことがある。


ゲオルグが、奥から出てきた。


「巡回ですか、隊長」顔見知りらしい気安さだった。「この地区は、しばらくぶりですな」


「ライアンだ」と男は名乗り直した。「この春から、こちらの地区も管轄に入った。閉鎖の通達が出ていると聞いている。それまではこれまで通り巡回する」


ゲオルグが何か答えた。閉鎖の話だ。テスは二人のやり取りを、半歩離れた場所で聞いていた。聞きながら、視界の隅でもう一つの動きを捉えていた。


ダンテが中庭の長椅子から立ち上がっていた。


今日も男は来ていた。傷の口実なしに。長椅子に座って、テスの手が空くのを待っていた。その男が、門から入ってきた隊長を見て、ばつの悪そうな顔で腰を浮かせている。


ライアンも、ダンテに気づいた。


「ダンテ」少し意外そうな声だった。「お前、こんなところで何をしている」


「……隊長」背筋がわずかに伸びる。元上官を前にした、染みついた反応だった。それから、ばつ悪げに塞がった手の傷跡を見せた。「怪我の治療だ。もう、治っちまったがな」


「治ったなら、なぜいる」


「……まあ、いろいろあるんだよ」


二人の間に、気まずい間が落ちた。


元上官と元部下。戦の場所を共にした者同士の、けれど除隊で立場の分かれたぎこちなさ。ダンテは酒のにおいをさせている。ライアンは気づかないふりをするでもなく、職務とは違う目で男を一度上から下まで見た。


「ダンテ」


「あ?」


「眠れてるか」


ダンテが、ふん、と鼻を鳴らした。「またそれかよ」と苦笑する。「相変わらずだな、隊長は。会うたびにそれだ」


テスは水桶のそばで動かなかった。


顔には何も出さない。手のひらが、桶の縁の濡れた木をわずかに強く握っただけだった。その問いを、テスは誰よりもよく知っている。来歴のすべてを知っている。眠れない夜を酒の代わりに数で潰そうとしていた、痩せた若い兵士。最後の朝に「次は先生と呼んでいいですか」と言った、あの男。彼が四年の歳月をかけて、自分が差し出された問いを、今度は自分の部下に差し出している。


あなたは、それを続けているんですね。


声に出せない言葉が、テスの中でひそやかに灯った。


その問いの最初の主が水桶のそばに立っているとは、再会した二人のどちらも思わない。


「悪い癖だと自分でも思う」ダンテに向かって、けれど半ば自分に向けた声だった。「だが、聞かずにいられん。お前は東部にいた。だから聞く」


ダンテは答えなかった。


その代わり、テスの方をちらりと見た。視線に何か言いたげな色があった。隊長の「変なこと」をここで毎度笑い話にしていた、その相手の前で、当の隊長に直接それをやられた決まりの悪さ。ダンテは頭をかいた。


「眠れてるよ」少し間を置いてから。「……前よりは、な」


ライアンはひとつ頷いた。それ以上は聞かない。「それは続いているか」とも、「何か気になることがあるか」とも、今日は重ねなかった。部下の答えを、確かめるように受け取った。


テスは、その頷きを横顔で見ていた。


次話:「桃を選んだ人」

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