第七十話「変なことを聞く隊長」
残り四十四日。
雪の夜の話をしてから、ダンテの来かたが少し変わった。
相変わらず酒のにおいはさせている。けれど、長椅子に座る姿が前ほど構えていない。テスが隣に来ても、肩に力が入らなくなった。話すことも、戦の話ばかりではない。その日は、除隊してからの愚痴をぽつぽつとこぼしていた。
「軍隊ってのは、辞めてもついて回るもんでな。変な上官に当たると、特にだ」
「変な上官」とテスは繰り返した。
「ああ、おれの元の隊長だよ」塞がった傷跡を、もう癖のようになぞっている。「除隊したあとも、たまに顔を合わせるんだ。あの人、いまは衛兵隊の隊長でな。出世したくせに、相変わらず変なことを聞いてくる」
テスは、水差しを持つ手を止めなかった。
「変なこと、というと」
「『眠れてるか』だとよ」呆れたように、けれど、どこか嬉しそうに。「兵卒に向かって、隊長がだぞ。装備の点検でも、戦況の報告でもねえ。『眠れてるか』だ。最初に聞かれたときは、何かの引っかけかと思った。眠れてないって言ったら、不寝番でもさせられるのかとな」
テスの内側で、何かが静かに動いた。
それを、顔には出さなかった。水差しの水をダンテの椀に注ぐ手は、いつもと同じ速さで動いている。けれど胸の奥で、よく知った問いの形が四年ともう一つ前の人生ぶんの距離を越えてこちらに届いていた。
眠れているか。
その問いを、テスは知っている。
牢の中で、繰り返し差し出した問いだった。痩せた若い兵士に。眠れない夜を、酒の代わりに数で潰そうとしていたあの男に。最後の朝、彼は言った。次は先生と呼んでいいですか、と。あれから四年。彼は、自分が聞かれた問いを今度は自分の部下に聞いている。
雪の夜から出られない男に、別の夜から出られなかった男の問いがめぐって渡っていた。同じ戦争の、別の場所にいた二人だった。
「いい隊長さんじゃないですか」声に波は立てなかった。
「まあな。悪い人じゃねえよ。あの人も東部にいた口でな。何があったかは知らんが、人の眠りを気にかけるってのは……まあ、わかる気はする」
「お名前は」とテスは聞いた。
ただの相槌のように、軽く。けれど、聞かずにはいられなかった。
「ライアンって人だ。衛兵隊長の、ライアン。この辺の巡回も、あの人の管轄だと聞いた。近いうちに、施療院の地区にも回ってくるんじゃねえかな」
テスは、椀に水を注ぎ終えて水差しを置いた。
ライアン。
その名を、テスは何の表情もなく聞いた。聞いて、胸の中だけで一度転がした。牢番を自願した男。部下に眠りを聞く上官。実家と和解したと、最後に聞いた。名前は、まだ言えなかった、と言っていた人。その人がいまこの地区を巡回している。近いうちに、ここへ来る。
——あなたは、まだ、聞いているんですね。
声に出さない問いだけが、テスの中で揺れた。
顔には、何も出さない。出してはいけなかった。テスは、彼を知っている。けれど彼は、テスを知らない。この体の娘を、見たこともない。アネット・クロイスは死んだ。それは、覆らない世界の事実だ。だから、テスがその名に何かを感じたことは誰にも悟られてはならなかった。
すべてを知っているのは、テス一人だった。ダンテは、自分の隊長の話をしているだけだ。隊長が、かつて牢の中で誰に問いを教わったのか知らない。当の隊長も、その問いを教えた医者が、いま施療院で水を注いでいる娘だとは夢にも思わない。糸の両端を握っているのは、テスだけだった。握ったまま、テスは何も言わない。
その日の夕方、テスはミオを探した。
少女は、薪小屋の陰にいた。膝を抱えて、帯の笛に指を触れている。テスが近づくと、ミオは顔を上げた。逃げはしない。けれど、口も開かなかった。丸い目がテスを見て、それからそっと逸れる。
「ミオ」とテスは、静かに呼んだ。「夕飯、できてる」
ミオは、頷きもしなかった。
ただ立ち上がって、テスの少し後ろをついてきた。声は、まだ返らない。芋を好きだと言っていた、あの短い言葉も。距離は測り直されているけれど、元には戻っていない。安易には戻らない。テスは、それを急がせない。半歩後ろの足音を、ただ聞きながら歩く。
厨房に着くころ、テスはふと、門の方を振り返った。
近いうちに、衛兵隊の巡回がこの地区に回ってくる。ダンテは、そう言った。
それが、いつになるのかはわからなかった。
次話:「三日目の酒瓶」




