第六十八話「飲まなかった夜の数え方」
残り四十八日。
その日、ダンテは傷の口実すら持ってこなかった。
ただ門の脇の長椅子に座って、テスが通りかかるのを待っていた。手は、もう布も巻いていない。塞がった傷跡を、所在なげに親指でなぞっている。来る理由がとうとう尽きたのだ。それでも来た。
「嬢ちゃん」と男は呼んだ。「ちょっと、いいか」
テスは、洗濯物の籠を脇に置いて隣に座った。空は薄曇りで、湿った風が中庭を渡っていく。乾きかけの布の石鹸の匂いが、籠から立っている。
ダンテは、しばらく何も言わなかった。
それから、ぽつりとこぼした。
「昨日な、飲まなかったんだ」
テスは男の横顔を見た。
「一晩だけだぞ」とダンテはすぐに付け足した。言い訳のように、早口で。「たまたまだ。酒を切らしてて、買いに出るのが面倒でな。それで飲まなかっただけだ。眠れやしなかったがな。一晩じゅう天井を見てた。ひどいもんだ。やっぱり酒は要る、ってことがわかっただけだ」
その言い方は、自分を貶めるためのものだった。
飲まなかったことを、失敗のように語っている。眠れなかったのだから、飲まなかった夜は無駄だった夜だ。そう結論づけて、男は話を閉じようとしていた。
テスは、その閉じかけた話を開いておくことにした。
「飲まなかったんですね」と、静かに言った。
「だから、眠れなかったって言ってるだろ」
「眠れたかどうかは、聞いていません。飲まなかった。それは本当ですね」
ダンテが、眉を寄せた。何を言われているのか、わからない顔だった。
「……ああ。飲まなかったよ。それが、どうした」
テスは、少し考えてから口を開いた。
「あなたは、飲んだ夜を数えていますね。今日も飲んだ。昨日も飲んだ。だから自分は駄目だと。飲んだ夜の数を、ずっと自分で数えている」
男は、答えなかった。けれど、否定もしなかった。図星なのだ。
「数えるのを変えてみませんか。飲んだ夜を数えるのは、やめましょう。代わりに、飲まなかった夜を数えましょう」
ダンテがテスを見た。
「飲まなかった夜を……数える?」
「はい。昨夜、あなたは飲まなかった。それなら、それは一つです。眠れたかどうかは関係ありません。飲まなかった夜が、一つ。数えるのは、それだけです」
男は、長いこと黙っていた。
風が、もう一度、中庭を渡る。布が籠の中で揺れた。ダンテは、塞がった傷跡を親指でなぞり続けている。やがて、低い声で独り言のように。
「……飲んだ夜なら、数えきれねえ」と。「もう、何年だ。数えるのも馬鹿らしくなるくらいだ」
「ええ」
「飲まなかった夜は」と男は言葉を切った。「……一つ、か」
「一つです。昨夜の、一つ」
ダンテは、ふっと笑うような息を吐く。笑いではなかった。何か、長く背負ってきたものがほんの少しだけ肩からずれた音に近かった。
「変な数え方だな」
「そうですね」
二人は、しばらく薄曇りの空を見ていた。
「戦友がいたんだ」と。
話の接ぎ穂のような、けれどそれまでとは少し違う温度の声だった。
テスは、聞いた。けれど、何も言わない。男の方を見すぎないようにする。
「数えるって聞いて、思い出した。あいつは、何でも数えるやつでな。行軍の歩数だの、残りの矢の数だの。生きてるか死んでるか、点呼で名前を数える役もあいつだった」ダンテは、そこで言葉を止めた。「……まあ、昔の話だ」
それきり、男は口を閉じた。
戦友という言葉の向こうで扉が一つ、わずかに開いて、すぐにまた閉じた。テスは、その隙間を覗き込まなかった。覗けば、男はまた酒の理屈の奥へ引っ込む。今日は、ここまででよかった。
「また、来てください」
「傷は、もう治ったぞ」
「傷がなくても、来ていいんです」
男は少し驚いた顔をして、それから立ち上がった。帰りぎわ、誰にともなく小さくつぶやいた。
「……飲まなかった夜が、一つ、な」
その言葉を、男は持って帰った。
酒は薬だという理屈ではなく、初めて、数えるという言葉の方を。一つ。たった一つの、飲まなかった夜を。それを明日まで覚えていてくれるかどうかは、わからない。けれど今日、ダンテはそれを手のひらに乗せて、門を出ていった。
次話:「戦争は終わっていますか」




