第六十七話「酒は薬だと、その人は言う」
残り五十日。
男の名は、ダンテといった。
最初に来たあの日から数日と空けず、男はまた門をくぐってきた。右手の傷は、ゲオルグが縫ってもう塞がりかけている。それでも、ダンテは来る。包帯を巻き直してくれだの、膿んでいないか診てくれだの。口実は毎度違うが、傷はとうに口実の役を終えていた。
その日も、男は中庭の隅の長椅子に、大きな体を持て余すように腰かけている。
テスは、新しい布と水を持って隣に座った。診察と処置はゲオルグの領分だ。けれど、ゲオルグの手が空かないとき、すでに塞がった傷を清め直すくらいはテスの役目に入る。それに、この男が本当に持て余しているのは、手の傷ではなかった。
「巻き直しますね」
布を解くと、酒のにおいが男の体からふわりと立った。今日もだ。昼間から、もう飲んでいる。指先がわずかに震えていた。傷の痛みではない震えだということを、テスは知っていた。
ダンテは、テスの視線に気づいたらしい。
「言いたいことは、わかるぜ、嬢ちゃん」少し笑っている。「飲みすぎだ、ってんだろ。みんなそう言う」
「いいえ。何も言っていません」
男は、虚を突かれたようにテスを見た。それから、ふんと鼻を鳴らした。
「酒はな、薬だ」ゆっくりと、言い聞かせる調子だった。「眠れるんだよ。これがなきゃ、おれは一睡もできん。飲めば眠れる。眠れりゃ、朝が来る。なら、薬と同じだろうが。違うか」
テスは、布を巻く手を止めなかった。
反論は、しなかった。「それは違う」とも、「体を壊す」とも言わない。説教を、この男は何度も聞いてきたのだろう。聞くたびに、酒の正しさを守るために心を固く閉じてきた。咎める言葉は、相手の理屈を壊そうとして、かえってその理屈にしがみつかせる。正論が酒に勝った例を、前世で一度も見たことがない。
だから、テスはその理屈を、ダンテと一緒に眺めることにした。
「眠れるんですね」と、テスは聞いた。
「ああ」
「飲まないと、眠れない」
「そう言ってる」
「飲んだ夜は、よく眠れますか」
ダンテが、口を開きかけて、止まった。
それは、考えたことのない問いだったらしい。男はしばらく黙って、巻かれた自分の手を見ていた。それから声を落とした。
「……眠るっつうか。気を失う、に近いな。気がついたら朝だ。夢も見ねえ。見ねえようにするために飲んでる、ってのもある」
「夢を、見たくない」
「ああ」
そこから先をテスは聞かなかった。
聞きたくなる。何の夢か。なぜ見たくないのか。けれど、初めて会って数日の男が、その扉を開く準備はまだできていない。急いで開けさせれば、扉ごと壊れる。テスは、その手前で手を止めた。問診とは、相手の歩幅に合わせて一緒に立ち止まれることだった。
「わかりました」とテスは言った。「夢を見ない夜が、いまのあなたには要る。それで眠れているなら、いまはそれでいいんだと思います」
ダンテが、顔を上げた。
否定されると思っていた目だった。たしなめられ、断て、と迫られる。その身構えが、男の肩に張りついていた。けれど、テスは断てとは言わない。肩から、ほんの少し力が抜けた。
「変な嬢ちゃんだな」前と同じ言葉だった。けれど、声の硬さは前より少しだけ和らいでいた。
「よく言われます」
布を巻き終えて、テスは結び目をきつく締めた。傷は、もう塞がっている。次に来る口実を、この男はまた探すのだろう。それでいい。来てくれる間は、聞ける。聞ける間に、聞いておきたいことが、まだ何もないところから少しずつ生まれていく。
ダンテは立ち上がって、外套の襟を立てた。帰りぎわに、一度だけ振り返った。
「酒は、薬だ」念を押す声だった。「おれにとっちゃ、な」
「はい」否定も肯定もしない、ただ受け取る「はい」だ。
男は、それ以上は言わずに門の外へ消えていった。日が傾いて、外套の背中が長い影を引いている。その影が、酒のにおいと一緒に夕方の道に溶けていった。
テスは、空になった長椅子を見ていた。
薬だと、あの人は言う。眠るための。けれど本当に眠れているのなら、夢を見ない朝にあんなに疲れた顔はしないはずだった。
次話:「飲まなかった夜の数え方」




