第六十六話「抽斗の中の三十年」
残り五十一日。
院長室の片づけが、少しずつ始まっていた。
閉鎖の日まで、まだ日はある。それでもゲオルグは早すぎるほど早く、棚の整理に手をつけ始めていた。古い薬瓶を分け、使い切った帳面を縛り、要るものと要らないものを床に二つの山に積んでいく。テスはその手伝いに呼ばれて、書棚の埃を払っていた。
紙とインクと、古い木の乾いたにおいがこもっている。窓を細く開けると、外から薬草畑の青いにおいが入ってきて、二つのにおいが部屋の真ん中で混ざった。
「これは捨てる」ゲオルグが帳面の束を、要らない方の山に置く。「これも」
その手つきには、迷いがなかった。三十年ぶんの紙を、老医師は淡々と仕分けていく。捨てることに慣れた人の手ではない。捨てると決めた人の手だった。一枚ずつ思い出していたら、とても終わらない。だから、見ないようにして捨てている。テスにはそう見えた。
机の一番下の抽斗を、ゲオルグが引く。
中から、紙の束が出てきた。
古い紙だった。色が褪せて、端が茶に灼けている。麻紐で雑にまとめられた、ずいぶん厚い束。ゲオルグはそれを手に取って、少しの間表書きを眺めた。それから、要らない方の山へ無造作に投げる。
「先生。それは、何ですか」
「紙切れだ」
テスは、山の上に落ちたその束を見た。一番上の一枚に、丁寧な字が並んでいる。埃を払って、覗き込んだ。
感謝状だった。
ある冬、流行り病で倒れた村を救った礼に。署名はどこかの村長の名。日付は、ずいぶん昔だった。その下にも、似た紙が重なっている。子を助けられた母親の、たどたどしい字の礼。傷の癒えた兵士から届いた、短い一行。施療院に寄進をした商人の、仰々しい書状。三十年ぶんの礼の言葉が麻紐一本で束ねられて、抽斗の底に眠っていた。
「捨てるんですか」
「飾る場所もない。持っていく先もない」ゲオルグは別の棚に向き直った。「礼を言われるのは、その場かぎりだ。紙に残ったところで、何にもならん」
その声に、棘はなかった。怒っているのでも、卑屈なのでもない。ただ、本当にそう思っている声だった。三十年ぶんの感謝を、紙切れだと言い切れる人。テスはその横顔を見た。
この人は、自分のしたことの大きさを数えたことがない。
一人で火を絶やさずにきた人だ。けれど、その火がどれだけの夜を照らしたかをゲオルグは一度も振り返っていない。礼状を抽斗に押し込んで、振り返らずに、また次の患者を診てきた。それが三十年。だから今、その三十年を「何だったのか」と問われたとき、答えるための数字をこの人は何も持っていない。
その束を、テスは要らない山からそっと拾い上げた。
捨てる、とは言わせない。けれど、今ここで「大事なものですよ」と説くつもりもなかった。説いたところで、この人の中で紙切れが宝に変わるわけではない。それは、本人がいつか自分で気づくことだ。
「埃を払って、こっちに置いておきます」とだけテスは言った。要るものの山でも、要らないものの山でもない、机の端に。「邪魔なら、あとで捨ててください」
ゲオルグはちらりとそれを見て、何も言わなかった。止めもしなかった。
片づけは、日暮れまで続く。
要らないものの山が、要るものの山よりずっと高くなっていた。三十年は、捨てるものの方が多い。テスは束を布で包み、机の端に残した。麻紐の結び目は、長い年月で固くなってほどけそうにない。
院長室を出て、廊下を歩きながら、テスはふと足を止めた。
中庭に、薄い夕日が差している。井戸の縁に腰かけたミオが、囲いの鶏を見ていた。あの子はまだ、テスに言葉を返さない。けれど今朝、汁の椀を置いたとき、逃げはしなかった。距離は、ほんの少しずつ測り直されている。
期限が、また一日減った。
その実感が、テスの胸に奇妙な手触りで触れる。牢の中では、減っていく日数は自分の命が短くなる音だった。一日数えるたびに、終わりへ近づいていく。けれど今、減っていく日数の向こうに、テスはまだ生きている。施療院が閉じても、テスの明日は来る。
——今度は、私は死なない。
そう思って、テスは自分がその考えにうまく馴染めないことに気づいた。終わりを数えながら、自分はその終わりを越えて生き残る。覚悟していたのは、いつも死ぬ側のことだった。生き残る側の心構えを、テスはまだ持っていない。
期限の向こうに、自分の明日がある。
それが、こんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。
次話:「酒は薬だと、その人は言う」




