第六十五話「医者の手が、止まる」
残り五十三日。
その日、ゲオルグの手が、止まった。
朝の患者は、腕に深い切り傷を負った荷運びの男だった。よくある傷だ。ゲオルグなら、目を閉じていても縫える。テスは脇に立って、清めた布と糸を渡し、傷口を押さえていた。診察と処置は院長の領分で、テスはそれを越えない。
ゲオルグが、針を持った。
傷の縁に当てた。そこで、止まった。
針先が、傷から指一本ぶん離れたところで、宙に浮いたまま動かない。テスは、院長の横顔を見た。視線が、傷を見ているようでどこも見ていない。三十年その手で人を縫ってきた医師の指が、よく知った作業の前で迷子になっていた。
患者の男が、不安げに腕を見た。「先生……?」
「ああ」と声だけが返った。手は、動かない。
テスは、静かに身を寄せた。
「先生」と、低く声をかける。「布、もう一枚押さえ直しますね。少しだけ傷を見せてください」
理由を作って、間を置いた。患者の傷をもう一度清める手つきで、テスはゲオルグが息を整える時間を稼いだ。針を持つ手が止まったとき、人が必要としているのは、咎める声でも急かす声でもない。ただ、もう一拍の余裕だ。テスはそれを差し出した。
ゲオルグが、小さく息を吸い直した。
針が、動いた。
傷の縁が、丁寧に縫い合わされていく。手つきはいつも通り確かだった。患者は気づかなかったかもしれない。けれど、テスは見た。あの一瞬、この人の三十年が、針の先で立ちすくんだのを。
処置が終わって、男が出ていった。
診察室には、薬と血のにおいが残った。ゲオルグは椅子に深く座って、両手を膝に置く。その手を、しばらく見下ろしていた。
「……手が、言うことを聞かんときがある」患者がいなくなって初めて漏れた、本音だった。「最近だ。何でもない傷の前で、何をすればいいかわからなくなる。三十年やってきたことだぞ。おかしな話だ」
テスは、糸を片づける手を止めた。
これは、聞くべき言葉だった。前世で、燃え尽きていく人を何人も見た。長く一人で誰かを支え続けた人ほど、ある日、よく知った仕事の前で手が止まる。意欲が消えるのではない。気力という器そのものが、底をついていく。それは、たるみでも怠けでもない。長く燃えすぎた火が、燃やすものを失っていく音だった。
「おかしくないです」
ゲオルグが顔を上げた。
「先生は三十年、一人で火を絶やさずにきた。閉じると言われて、その火をどこへ向ければいいか、わからなくなっているだけだと思います」
説明はしなかった。診断の言葉も、治し方も口にしない。それはテスの領分ではないし、この人がいま欲しいものでもない。ただ、あなたの手が止まるのには理由がある、それをここにいる誰かが見ている。それだけをテスは渡した。
ゲオルグは、しばらく黙っていた。それから、ふっと笑う。疲れた、けれど少しだけほどけた笑いだ。
「お前は、いつからそんな物言いをするようになった」
「さあ。いつからでしょう」
その日の午後、施療院の空気は、重かった。
閉鎖の報せが院じゅうに広がって、賄い婦は溜息をつき、薬師は帳面を繰る手が早くなった。残りの日数を、誰もが頭の隅で数えていた。患者たちも噂を聞いて、不安そうに門の貼り紙を見上げていく。ここがなくなったら、自分たちはどこへ行けばいいのか。その問いが、中庭の空気に薄く混じっていた。
日が傾きかけたころ、門に、大きな影が立った。
背の高い、肩幅の広い男だった。三十代の半ばだろうか。古びた外套を着て、右手を布で雑に巻いている。血が滲んでいた。怪我の治療に来たのだろう。
テスが水を運ぼうと近づくと、男のまとうにおいが、鼻を突いた。
酒だった。
それも、昨夜の残り香ではない。今日ついさっき飲んだ、新しい酒のにおい。男の足取りは確かだったが、目の縁が赤く、息に発酵した甘ったるさが混じっていた。
「医者はいるか」声が大きい。「ちょっと手を切っただけだ。すぐ済む」
テスは、男の巻いた右手と赤い目と酒のにおいを、順に見た。
手の傷は口実だ。前世で何度も見た顔だった。傷を理由に通ってきて、本当に診てほしいものは別にある人。この大きな男が何を抱えてここへ来たのか、テスにはまだわからない。けれど、これはただの怪我ではない。
「どうぞ。中へ」とテスは言った。「今日の食事は、取れましたか」
男は、虚を突かれたようにテスを見下ろした。
「……は? 食事?」と訝しげに眉を寄せた。「変なこと聞く嬢ちゃんだな」
次話:「抽斗の中の三十年」




