第六十四話「鳴らない笛」
残り五十六日。
ミオは、笛を持っている。
木でできた、古い横笛だった。どこで拾ったのか、テスも知らない。ミオが施療院に来たときには、もう持っていた。塗りは剥げ、歌口の縁が黒ずんで、誰かの手垢が何年もかけて染み込んでいる。ミオはそれを肌身離さず帯に挟んでいた。寝るときも、枕の下に置いている。
けれど、決して吹かない。
テスは一度だけ、ずっと前にその理由を聞きかけたことがあった。「ねえ、それ、鳴らしてみないの」と。ミオは首を横に振った。それきり、テスも聞かなかった。鳴らさない笛を持っている子に、無理に鳴らせる理由はない。
その日の午後、雨が降った。
患者の列は早くに途切れて、施療院は静かになった。テスは縫い物を持って、軒下の乾いた場所に座った。雨の落ちる音が薬草畑の葉を叩いている。土と濡れた草のにおいが、強く立ちのぼっていた。
少し離れた柱の陰に、ミオがいた。
膝を抱えて、雨を見ている。帯から、あの笛が覗いていた。
テスは、声をかけなかった。
ここ数日で、わかったことがあった。話しかければ話しかけるほど、ミオは奥へ引いていく。返事を待つ目で見つめると、子供は逃げる。だからテスは考えを変えた。話させようとしない。返事を求めない。ただ、同じ雨を同じ場所で見る。それだけにした。
聞くという仕事は、口を開かせることだけではない。前世で何度も学んだことだった。言葉を引き出そうとして、かえって相手の口を閉ざしてしまう面談を若いころに何度もやった。沈黙を、急いで埋めようとしてはいけない。沈黙のまま、隣にいられるかどうか。それも一つの問診だった。
テスは縫い物に目を落として、針を進めた。
ミオの方は、見ない。
長い間、二人とも黙っていた。雨の音だけがある。やがてミオが帯から笛を抜いた。両手で持って、歌口を唇の近くまで運ぶ。テスは横目でそれに気づく。けれど、何も言わなかった。息を詰めて、待った。
ミオは、笛を唇の手前で止めた。
そのまま、長いこと動かなかった。吹けば音が出る。けれど、吹かない。指は穴の上に置かれているのに息は通らない。やがて少女は笛を下ろして、また帯に挟んだ。
雨が、少し弱くなった。
テスは縫い物の手を止めて、自分の膝を見た。
この子は、声を出すと何かが消えると思っている。
そう気づいたのは、いつだったか。家族を喪った子だ。声を上げて泣いた夜の向こうで、大切なものが失われた。だから、声を出すことと失うことが、この子の中で固く結びついている。笛も同じだ。鳴らせば、何かが消える。そう信じている。だから、鳴らさない。鳴らさないことで守っている。
それなら。
テスは、自分の手のひらを見た。
二つの人生を受け取ったあの朝から、自分の声の温度や言葉の選び方が、ほんの少し変わったのだとしたら。ミオにとってその変化は——「いつものテス」が消えてしまったように見えたのではないか。声を返せる、数少ない相手の一人。その一人がある朝、知らない誰かに入れ替わったように感じたのだとしたら。
だから、話さなくなった。
声を返すと、また何かが消える。今度こそ目の前のこの人が、本当に消えてしまう。そう恐れているのかもしれない。
テスは、長く息を吐いた。
胸の奥が、重かった。
牢の中では、できることだけを数えて生きた。何もない場所で、言葉だけで四人の重さを半分にする。あのときは、自分が誰かを傷つけているとは一度も思わなかった。診ることは、いつも相手に何かを差し出すことだった。
けれど今、テスは初めて知った。
診る側のほんの小さな変化が、診られる側を傷つけることがある。自分が記憶を取り戻したこと。それ自体が、この子の「話せる相手」を一人壊したのかもしれない。テスは何も悪いことをしていない。ただ、自分のままでいられなかった。それだけで、子供が一人声を失った。
これは、敗北だった。
牢の六十日で、一度も味わわなかった種類の敗北だった。
雨が止んだ。軒先から、雫が一つ、また一つと落ちる。
テスはミオの方を見ないまま、縫い物を膝に置いた。立ち上がりも、近づきもしない。同じ軒下に座り続けた。話させようとはしない。けれど、ここにいる。それだけは伝わってほしかった。
「雨、止んだね」
独り言のように、誰にともなくテスは言った。
ミオは、答えなかった。けれど、逃げもしない。膝を抱えたまま、止んだ雨の跡を見ていた。
それが、今日できたことのすべてだった。
次話:「医者の手が、止まる」




