第六十二話「今日の食事は取れましたか」
残り五十九日。
施療院の朝は、人の列から始まる。
門が開くころには、もう数人が中庭で待っている。指を切った職人、夜通し咳をしていた老婆、腹の子が動かないと不安そうな身重の女。ゲオルグが診察室で処置をする。テスはその合間を縫って、待つ人々に水を配り、順番を整え、ときどき隣に座る。
「今日の食事は、取れましたか」
腰の曲がった常連の老人に、テスはそう声をかけた。
言ってから、自分の口が勝手にその問いを選んだことに気づいた。前世で患者に最初に聞いていた言葉だ。食事という小さくて具体的なところから入ると、人はまだ話せる。覚えていたのではない。体が覚えていた。
老人は、皺だらけの顔をわずかに上げた。「パンを少しな」と言う。「喉を通らん日が多い」
「そうですか。汁物の方が楽な日もありますよ」
それ以上は言わなかった。薬の話も、食べろという指図もしない。ただ聞いて、受け取る。老人は何か言いたげに口を動かして、けれど結局、黙って膝の上の手を見た。それでよかった。今日はここまで。明日はもう少し話すかもしれない。
診察室の方から、ゲオルグの声がした。いつもより低い。患者の名を呼ぶ声に張りがない。テスは水差しを持つ手を止めて、診察室の扉をちらりと見た。半分だけ開いた隙間から、薬を量る老医師の背中が見える。秤の皿を見つめる横顔が、どこか上の空だった。
昨日の朝の、書状を持った後ろ姿が、頭の隅に残っている。
けれど院長は、患者の前ではいつも通りに振る舞っていた。傷を診て、薬を塗り、包帯を巻く。手の動きは確かだった。ただ患者が出ていったあと、誰も見ていないと思っている一瞬に老人の肩から力が抜けるのを、テスは廊下の隙間から見てしまった。
人は、診られている間より、診終えたあとの方に本音が出る。
昼が近づくと、列は途切れた。テスは厨房で芋を刻み、薄い汁を煮た。湯気が立って、根菜の甘いにおいが廊下まで流れていく。施療院の食事は質素だが、温かいものが出る。それだけでも、外で凍えている人には大事だった。
椀を並べていると、中庭の隅で小さな影が動いた。
ミオだった。
九歳の少女は、いつものように物陰にいた。膝を抱えて、囲いの鶏を見ている。テスはその子に、汁の入った椀を一つ運んだ。
「ミオ。お昼。今日は芋」
声をかけると、ミオはこちらを見た。
この子は、ほとんどの人と話せない。家族を喪ってから声が出なくなった。けれどゲオルグとテスにだけは、ごく短い言葉を返してくれる。「うん」とか「いた」とか「やだ」とか。それだけの単語が、テスにとってはどんな長い会話よりも嬉しかった。今朝も寝床で息が浅かったあの子。だから、いつもの返事が聞きたかった。
椀を差し出して、テスは待った。
「芋、好きだったよね」
ミオは、椀を見た。それから、テスの顔を見た。丸い目が、いつもと少し違う色をしている。何か言おうとして、唇が動きかけた。
けれど、声は出なかった。
ミオは椀を受け取って、両手で包んで、また鶏の方を向いた。「うん」も「ありがと」もなかった。テスにだけは返してくれたはずの、たった一言が来なかった。
テスはそのまましばらく、その小さな後ろ姿を見ていた。
鶏が一羽、地面をつついた。汁の湯気が、子供の手の中で細く立ちのぼっては消えていく。風が薬草畑のにおいを運んできた。何もかもがいつも通りで、一つだけ、いつも通りでないものがあった。
たまたま、かもしれない。眠りが浅かっただけかもしれない。
テスはそう自分に言い聞かせて、けれど胸の奥に小さな引っかかりが残った。
——どうした、ミオ。
声に出さずに、そう聞いた。けれど答えはなく、子供は黙って芋の汁を見つめていた。
次話:「また、六十日」




