第六十一話「二度目の朝、職業病から」
残り六十日。
朝の鐘が二度鳴る前に、テスは目を覚ました。
下働きの娘の朝はいつもそうだ。誰かに起こされるより先に、体が起きる。藁を詰めた寝床の硬さも、窓の隙間から入る薄い光も、十七年ぶんの朝とまったく同じだった。
違ったのは、頭の中だった。
——ああ、戻ってきた。
そう思ってテスは、自分が何を「戻ってきた」と感じたのか、すぐには掴めなかった。覚えのない記憶が、覚えのある場所に静かに重なっている。白い天井の四角い部屋。消毒のにおい。患者の手が首にかかった、あの最後の午後。それから——石の牢の冷たさと、鉄格子の向こうの男の咳の音。柏木遥という名前。アネット・クロイスという名前。二つの人生がテスという娘の十七年に、上から降ってきた。
混乱は、来た。けれど、長くはなかった。
寝床の隣で、子供が小さく身じろぎした。
九歳のミオだった。住み込みの孤児で、テスと同じ部屋で眠っている。その子の息づかいがいつもより浅い。喉の奥で、空気がひっかかるような音がしている。
テスの体が、考えるより先に動いた。
息が浅い。胸の上の方だけで吸っている。寝苦しそうだ。
これだ、と思った。混乱の真ん中で、テスはこれを掴んだ。誰かの不調に気づく。前世で何百回もやったことだ。三つの人生のどれを生きていても、この癖だけは消えなかった。記憶が戻るより先に、職業病が戻ってきた。
ミオの額に、そっと手を当てた。熱はない。布団を首までかけ直すと、子供の息が少しだけ深くなった。
それでよかった。
テスは寝床の上で膝を抱えて、もう一度自分の中を確かめた。十七年ぶんの記憶は消えていなかった。ゲオルグ院長に拾われた日の雨。井戸で水を汲んだ手の冷たさ。ミオが初めて自分にだけ短い言葉をくれた夜の、こそばゆいような嬉しさ。それらは全部ちゃんとそこにある。柏木遥の記憶が、その上に加わっただけだった。誰も上書きされていない。テスはテスのままで、もう少しだけ多くのことを知っている娘になった。
乙女ゲームの……シナリオ。
内心で、その言葉を一度だけ使った。アネットの断罪も処刑も、ゲームの筋書き通りに進んで、覆らなかった。覚えている。けれど、この施療院の下働きの娘がその物語のどこにいたかと探してみても、どこにもいなかった。名前のある登場人物ではない。攻略対象でもなければ、悪役でもない。筋書きの外の、平民の娘。
前世の知識は、ここでは役に立たない。
そう思って、不思議と気が楽になった。知っていることで戦う物語ではない。それなら、いつもの仕事をすればいい。目の前の人を診る。それだけは、どこででもできる。
身支度をして、外に出た。
聖アルマ施療院の中庭は、まだ薄暗い。井戸の縁に夜露が残っていて、石を撫でると指先が濡れた。隅の薬草畑から、踏まれた葉の青くさいにおいが立っている。鶏が一羽、囲いの中で羽を動かした。何もかも、昨日と同じ朝だった。
廊下の奥、院長室の方から、ゲオルグの足音がした。
テスは挨拶をしようと顔を上げて、止まった。
ゲオルグが、開いた扉の前に立っていた。手に、封蝋のついた一通の書状を持っている。王家の紋章だ。その紙を、院長は読み終えた姿勢のまま、長いこと動かずに見下ろしていた。
老いた医師の顔から、表情というものが抜け落ちていた。
何が書いてあるのか、テスにはわからない。けれど人の顔から色が引いていく様子なら、嫌というほど見てきた。悪い報せを受け取った人間の、あの一瞬の静止。喉のあたりが固まって、息の数が変わる。
「院長先生」
声をかけると、ゲオルグはゆっくりと顔を上げた。書状をたたんで、上着の内側に滑り込ませる。その動きが、いつもより少し遅かった。
「……起きていたのか、テス」と老人は言った。「早いな」
「はい。ミオの寝相が悪かったので」
ゲオルグは小さく笑おうとして、笑いきれなかった。そのまま、何も言わずに院長室へ戻っていく。背中が、昨日より丸く見えた。
テスはその背中を見送りながら、井戸の水を一杯、汲んだ。冷たい水で顔を洗うと、頭の奥が澄んでいく。二つの人生が、一つの体の中で落ち着き場所を見つけていくのを感じた。
何が始まろうとしているのかは、まだわからない。ゲオルグの上着の内側で、紙が一枚、静かに重さを持っている。それだけはわかった。
桶を置いて、テスは長く息を吐いた。
朝の鐘が、ようやく二度鳴った。施療院の一日が始まる。患者が来る。誰かが痛みを抱えてやってくる。話を聞く人間が、一人いる。
——またできる。
それが、二度目の朝に、テスが最初に思ったことだった。
次話:「今日の食事は取れましたか」




