エピローグ「六十日の後で」
翌年の春、ライアンは実家に帰った。
宮廷を発つ前夜、上官に十日の休暇申請を出した。「親族への挨拶のために」と記した。上官は書類を見て、少しだけ目を細めた。「ライアン、お前が休暇申請を出すとは珍しいな」と言った。
以前のライアンは、休暇を取らなかった。
理由を人に説明したことは一度もなかったが、自分ではわかっていた。帰れるような自分ではない、と思っていたからだ。帰れば、何かを聞かれる。三年前の東部遠征のことを。ガレットのことを。それを答える言葉を、ライアンは持っていなかった。
でも今は、少し違う。
すべてを話せるわけではない。ガレットが自分の目の前で死んだことを、母や父に正確に語れるかどうか、まだわからない。でも、何も言えないまま家の前に立つことへの恐怖は、以前より薄くなっていた。それだけで充分だった。
三日かけて北へ向かった。最初の一日は平地が続いた。宮廷のある南部の、湿った重い空気。二日目の朝から、道が少しずつ上り坂になった。空の色が変わった。青が薄く、高くなった。風が少し乾いた。三日目の昼前、草の匂いが来た。
ライアンは馬を止めて、その匂いを肺の底まで吸い込んだ。
子供のころから知っている匂いだった。冬を越えた草が、春の土から立ち上がる匂い。それを三年半、ほとんど嗅いでいなかったことに、その瞬間初めて気づいた。宮廷にいる間は、石と煤と鉄の匂いが普通だった。失っていることにさえ、気づかなかった。
村が見えてきたとき、子供が三人、野道を走っていた。甲高い笑い声が上がった。ライアンの体が一瞬、固まった。反射的に。でもそれだけで、次の瞬間には解けていた。以前なら、こういう急な音に、しばらく心臓が早く打ち続けた。今日はそれがなかった。
変わっていた。
自分で思った。少しだけ、変わっていた。
母が庭にいた。薪を割っていた。斧を下ろす手が一度止まって、顔を上げた。ライアンを見た。そのまま、しばらく動かなかった。二年以上、手紙しかやり取りしていなかった。いや、手紙でさえ、ライアンが書いたのは三通だけだった。「生きています」「怪我はしていません」「暖かくなったら帰ります」。その三通を、母はどんな気持ちで受け取っていたのだろう。
「帰ったか」と母は言った。声は低く、落ち着いていた。
「帰りました」とライアンは言った。
それだけだった。母は何も言わずに、庭の奥へ歩いていった。ライアンは少し迷って、後をついていった。
馬がいた。
白くはなかった。茶色い、年老いた馬だった。毛並みはくすんでいて、背が少し丸くなっていた。父が十二年前、市場で買ってきた馬だ。あのころライアンは十四歳で、この馬の鬣を撫でるのが好きだった。名前はなかった。ずっと、名前のない馬だった。
馬は草原を向いていた。その向こうに、丘が広がっていた。
ライアンは馬の横に立って、同じ方向を見た。
夢の中では、白い馬がいた。広い草原を、光の中を走っていた。その白い馬が何だったのか、今でも正確にはわからない。ガレットだったのかもしれない。故郷の想像だったのかもしれない。ただ、遠い場所にあるものだった。
でも、この茶色い年老いた馬を見たとき——ライアンは、少し笑った。
笑える気がしなかったのに、笑っていた。
母が横に立っていた。何も言わなかった。ただ、隣にいた。
その夜、ライアンは久しぶりに七時間眠った。夢は見なかった。白い馬も、ガレットも、戦場も出てこなかった。ただ暗い、静かな眠りだった。朝、目が覚めたとき、自分がどこにいるかわからなかった。石床の硬さがなかった。松明の揺れる音がしなかった。
木の匂いがした。古い布の匂いがした。
ここだ。
そう思って、また目を閉じた。
滞在中、父とも少し話した。父は昔から口数が少ない。田畑の話を少しして、それから黙った。二人で麦の俵を運ぶ合間に、父がぽつりと言った。「辛いことがあったんだろうな」と。
ライアンは少し考えてから、「ありました」と答えた。
「そうか」と父は言った。それ以上は聞かなかった。
それだけで、充分だった。兄と夜、一度だけ酒を飲んだ。兄は酒が強くて、ライアンは弱い。途中でライアンが縁台で居眠りをした。目が覚めたとき、兄が隣で星を見ていた。「よかった、眠れるようになったんだな」と兄は言った。何も聞いていないのに、ただそれだけ言った。ライアンは答えずに、また星を見た。
「手紙、三通だったな」と兄がまた言った。「母が全部取ってある。棚の引き出しに」
ライアンは少し黙った。「ごめん」と言った。
「謝ることじゃない」と兄は言った。「生きているってわかれば、それで良かった。詳しいことはいつか話せるようになってから話せばいい」
「いつかになるかどうかわからない」
「わからなくていい」と兄は言った。
その言葉が、どこかで聞いた言い方に似ていた気がした。ライアンは少し考えて、「兄さんも、そういうことを言うんだな」と言った。兄が「何がそういうこと、だ」と笑った。久しぶりに聞く兄の笑い声だった。それを聞いて、ライアンは少しだけ笑った。
十日の滞在が終わる朝、母が握り飯を持たせてくれた。「また来い」とだけ言った。それ以上は何も言わなかった。次にいつ来るかも聞かなかった。ライアンは「はい」と答えた。その「はい」が、以前より少し自然に出た気がした。
名前は、まだ言えなかった。
あの精神科医の名前を、誰かに話せる気がしなかった。でも、その人のことを覚えていた。声を覚えていた。「今日の食事は取れましたか」と最初に聞いたあの声を。何でもない問いだった。でも、誰にも聞かれたことのなかった問いだった。
宮廷に戻ってからも、ライアンは牢担当の番を続けた。
異動の打診が一度あった。「経験があるから別の部署でも」と上官に言われた。ライアンは少し考えて、「今の部署を続けたい」と答えた。理由は言わなかった。うまく説明できなかった。あの場所を、知っている誰かが担当していた方がいい、とただ感じていた。それだけだった。
帰京して最初の夜、ライアンはなかなか眠れなかった。故郷での七時間が、嘘のように感じた。宮廷の部屋は石造りで、布団は薄く、廊下から衛兵の足音が聞こえた。その音のたびに、体がわずかに緊張した。以前ほどではなかった。でも、まだあった。
まだあるが、以前ほどではない。
それが今の自分だ、とライアンは思った。完全に治ったわけではない。でも、違う。あの牢で話した人が、「治らなくていい」と言っていた。その言葉の意味が、今になってわかる気がした。治ることを目標にするのではなく、昨日より今日、少しだけ楽に息ができるかどうかを確かめながら生きていく、ということだと思う。
結局、その夜は四時間ほど眠れた。故郷での七時間には及ばなかった。でも、四時間眠れた。眠れた夜として数えていいと思った。以前のように、二時間で目が覚めて、そのまま朝まで天井を見続けることは、なかった。
朝、任務に就いたとき、空が少し晴れていた。牢の窓から見える細い空が、薄い青だった。ライアンはその空を少し見た。故郷の空ほど広くはなかった。でも、空は空だった。
ガレットのことを、時々思い出す。
東部遠征の夜のことを。混乱の中で、ライアンは判断を誤ったと思っていた。あの瞬間、別の道を選んでいれば、ガレットは生きていたかもしれない。その考えが三年間、頭から離れなかった。でも今は、少し違う見え方ができる気がした。あの夜、自分にできたことをしていた。それで足りなかったかどうかは、わからない。でも、できることをしていた。
あの精神科医が言っていたことを、ライアンはそういうときに思い出す。「できることを、できる間に」。
ガレットへの答えはまだ出ていない。でも、問い続けることができるようになった。それだけでも、三年前とは違った。
あの場所を、前を通るたびに少し止まった。石の床を見た。松明の跡が残る壁を見た。鉄格子の錆を見た。止まって、また歩いた。それだけだった。
草原を走る夢を時々見た。白い馬が遠くにいる夢だった。悪い夢ではなかった。ただ、遠かった。
エドモンドは、その年の冬から確認の回数を記録し始めた。
一日の終わりに、手帳の端に正の字を書いた。今日は何回確認したか。書類を何度指でなぞったか。扉の鍵を何度確かめたか。昼食後に翌日の予定を何度見直したか。それを合計した。
最初は三十回を超えていた。三十一回の日も、三十五回の日もあった。
仕事で大きなミスがないかどうかを確かめるだけで、書類一枚に五回から六回指でなぞる。それが朝から晩まで続く。体が疲れる前に、頭が疲れる。数えてみて初めて、自分がどれだけの時間と労力を確認に使っているかを知った。数えなければ、気づかなかった。気づかないままでいる方が楽だったかもしれない。でも、気づいた。それが最初の一歩だった。
「今日は何回だった?」とヴィヴィアンが夕食後に聞くようになった。
「二十七回」とエドモンドが答えると、ヴィヴィアンが「昨日より三回少ない」と言った。そうだ、と気づいた。昨日は三十回だった。三回少ない。その変化を、こうして一緒に確認するようになった。
半年後には十五回になっていた。
一年後には、日によって違うとわかった。疲れているときに増える。不安なことがあると増える。それがわかってから、少し対処しやすくなった。今日は増えやすい日だ、と朝から意識できれば、少しだけ気をつけられる。
あの精神科医が言っていた言葉を、エドモンドはときどき思い出す。
「治らなくていい。一人じゃなければ大丈夫だということを、忘れずにいてほしい」
治らなくていい。最初は、よくわからなかった。治らないなら努力する意味がないのか、と思った。でも一年経って、少しだけわかってきた。「治る/治らない」の二択ではなく、「今日は昨日より少し楽か」という問いで生きていくということなのだと。
仕事のことで言えば、確認の回数が減ったことで、以前より多くのことができるようになった。同じ時間で、より多くの書類を処理できる。疲れが違う。昼食後の頭の重さが、以前と違う。そういう変化を、エドモンドは手帳に書き留めた。確認回数と並べて記録した。数が減ると、できることが増える。その相関が見えてきたとき、エドモンドは初めて、確認行動が自分の人生をどれほど占有していたかを知った。
父のことを、一度だけヴィヴィアンに話した。
父が亡くなってから三年が経っていた。生前は毎年命日に墓参りをしていたが、今年は二人で行った。墓の前で、エドモンドはしばらく黙っていた。ヴィヴィアンが隣にいた。
「父の言う通りにしていれば間違えないと思っていた」とエドモンドは言った。「でも、父の言葉通りにしていても、間違えることはある。そして父の言葉通りにしていなくても、正しいことはある」
ヴィヴィアンは何も言わなかった。ただ、隣にいた。
「今頃気づいた」とエドモンドは言った。
「気づいたのは今頃でも、気づいたことは本物です」とヴィヴィアンが言った。
その言葉が、どこかから来たような気がして、エドモンドは少し目を細めた。牢でも、似たようなことを聞いた気がした。あの精神科医の言い方に、少し似ていた。
父の声が、今も時々頭に来る。「一度では足りない。二度、三度、確かめろ」。でも最近は、続きが来るようになった。
それは父の言葉だ。今の自分の言葉ではない。
その切り替えができるようになったことが、変化だった。
ヴィヴィアンは、月に一度、一人で市場に出かけるようになった。
最初の月は、エドモンドが「いつ帰ってくる」と三回聞いた。ヴィヴィアンは「昼すぎには」と答えた。エドモンドが「本当に一人で行くのか」と確認した。ヴィヴィアンは「はい」と答えた。エドモンドは一度確認して、それ以上は言わなかった。
それが変化だった。
ヴィヴィアンは市場への道を、一人で歩いた。エドモンドが隣にいない道を歩くのは、何年ぶりかわからなかった。宮廷からほど近い市場まで、徒歩で半刻ほどの道のりだった。最初の十分は、少し不安だった。何かを見落とすかもしれない。知らない人に話しかけられたらどうしよう。道を間違えるかもしれない。そういう考えが頭をよぎった。でも、市場の入り口が見えたとき、不安よりも別のものが来た。
来られた。
ただそれだけのことが、うれしかった。市場はにぎやかだった。野菜売りの声、布地を広げる音、どこかで子供が笑っている声。人が多くて、少し疲れた。でも疲れること自体が、外にいる証拠だった。
ヴィヴィアンが買ってきたのは、最初の月は野菜と花だった。紫の小さな花を一輪。名前も知らないような、地味な花。でも綺麗だと思って手を伸ばした。
家に帰ってから、テーブルに置いて見た。自分が選んだものが、そこにあった。
子供のころ、一度だけ似た感覚があった。市場で、母に「どれがいい?」と聞かれて、桃を選んだ。三種類の果物が並んでいて、ヴィヴィアンは桃を指さした。その日だけ、自分が決めた。それから三十年近く、そういう感覚がなかった。何かを決めるとき、いつも「どれがいいですか」と誰かに聞いた。聞かないと不安だった。自分の判断が間違っているかもしれないから。でも、この花を選んだとき、誰にも聞かなかった。ただ綺麗だと思った。それだけで充分だった。
次の月は桃を買った。旬ではなかった。少し値が張った。でも桃が好きだから、桃を選んだ。「これが好きだから」という理由で選んだ。その感覚が、うれしかった。
市場からの帰り道、ヴィヴィアンは少し遠回りをした。花屋の前を通って、別の通りを歩いた。誰かに何かを確認しなくても、遠回りできる。それだけのことが、新しかった。
二人は今も同じ家にいる。喧嘩もする。行き詰まることもある。先月も、エドモンドが「どこに行くつもりだ」と声を荒げたことがあった。ヴィヴィアンが「また市場です、何度言ったらわかるんですか」と言い返した。二人とも黙った。夕食は静かだった。
夜の終わりに、エドモンドが言った。「悪かった。不安だっただけだ」
ヴィヴィアンは少し考えて、「私も言い方が悪かった」と言った。
翌朝、二人でパンを食べた。それで終わりだった。
以前の二人には、この「翌朝のパン」がなかった。どちらかが黙り込んで、どちらかが合わせる形で終わっていた。それは解決ではなく、ただの圧力だった。どちらも苦しかった。でも苦しいとは言えなかった。苦しいと言ったら、何かが崩れると思っていたから。
今は違う。行き詰まったときに話すようになった。話せないときは、翌日話した。翌日も難しければ、その翌日に。それが今の二人の形だった。
王は、その年の秋に、古い側近の子息を一人召し抱えた。
ルーカスという名の男だった。三代前の宮廷で側近を務めた家系で、父から「はっきりものを言う家柄です」と事前に言われた。面談のとき、ルーカスは緊張していたが、声は落ち着いていた。
「陛下の政務を支えることと、陛下に正確な情報を届けることを、同じ重みで務めます」と言った。
王はその言葉を聞いて、少し止まった。
「正確な情報」とは、時として「陛下が聞きたくない情報」でもある。それを「同じ重みで」届けると言っている。今まで誰もそんな言い方をしなかった。「陛下のご判断を支えます」か「陛下のお心のままに」しか言わなかった。
採用した。
三ヶ月後、ルーカスが「陛下、一点確認させてください」と言った。王が決定した課税率について、計算の前提に誤りがある可能性がある、という内容だった。王は怒った。内心で。こみ上げるものがあった。
でも、怒鳴らなかった。
自分でも、少し驚いた。以前の自分なら声を荒げていた。「確認してから来い」か「余が決めたことに口を出すな」と言っていた。でも今日は、「調べてから報告せよ」と言って、部屋を出た。廊下を歩きながら、何が変わったのかを考えた。わからなかった。ただ、どこかに声があった。記憶の奥の、静かな声。
眠れていますか。
あの声だった。
王が死刑の判決を下した相手の声だった。それでも、その声が残っていた。あの問いを聞いた夜から、何かが変わっていた。小さな変化だった。「怒鳴ること」と「正しいこと」は別だということが、少しだけわかった気がする。
後日、ルーカスの計算確認が正しかったとわかった。前提に誤りがあり、課税率を修正する必要があった。ルーカスが謝罪しに来た。「調べてから報告するよう言われたのに、確認前に申し上げてしまいました」と言った。王は少し考えてから、「調べる前でも言ってよかった。最初から言っておいてくれ」と言った。
ルーカスが少し目を丸くした。
王もわかっていた。以前の自分が言わなかったことだった。「最初から言ってくれ」などと言ったことは、四十年の人生でなかった気がした。でも言えた。なぜかはわからない。ただ、誰かが「眠れていますか」と聞いてくれた夜から、何かが少し変わっていた。
それから王は、ルーカスと月に一度、二人だけで話すようになった。議事でも報告でもなく、ただ話した。最初は何を話せばいいかわからなかった。でもルーカスが「最近のご様子はいかがですか」と聞いてきたとき、王は「眠れていない」と答えた。
自分でも驚いた。そんなことを、誰かに言ったのは初めてだった。
いや、二度目だった。
あの牢の前で、一度聞かれたことがあった。「眠れていますか」と。その問いに、王は直接答えなかった。でも今日、ルーカスに答えられた。それが二回目だった。
「眠れていないとは、どのくらいですか」とルーカスが聞いた。
「批判を受けた翌日は、夜中に目が覚める。それが三十年続いている」
ルーカスは少し考えて、「それは辛いですね」と言った。解決策も、励ましも、提案もしなかった。ただそう言った。
辛いですね。
その言葉を、王はしばらく黙って受け取った。辛いかどうか、これまで考えたことがなかった。「王として当然のことだ」と思って生きてきた。でも今日、辛いと言われて、そうかもしれないと思った。
眠りは、まだあまり深くなかった。
三十代から続いている眠れない夜が、急に消えたわけではない。批判を受けた翌日は、今でも夜中に目が覚めることがある。布団の中で天井を見る。石造りの天井が、暗闇の中にある。窓から月が入ってくる夜と、入らない夜がある。月のある夜は少し眠れる。月のない夜は眠れないことが多い。なぜかはわからない。でも、その法則がわかってきた。わかると、少し楽になった。
以前より夢を見るようになった。良い夢ではなかった。でも夢を見るということは、少し深く眠れているということだと、どこかで読んだ。
ある会議で、地方官の報告書を退けた日があった。前なら「不要だ」の一言で済ませていた。でもその夜、寝台の中で、あの問いが来た。
眠れていますか。
声まで聞こえる気がした。静かで、怒りも哀れみもない声。あの牢の鉄格子の向こうから聞こえた声だ。
王は暗闇の天井を見ながら考えた。今日退けた報告書。あの中に、何か聞くべきものがなかったか。自分が「不要だ」と言ったのは、本当に不要だったからか。それとも、報告の内容が自分の判断の誤りを示唆していたから、見たくなかったのか。
わからなかった。でも、わからないと認められるようになった。以前は「不要だ」と言ったら、それが正解だった。疑いが浮かぶことすらなかった。今は浮かぶ。浮かんだとき、すぐに消すのではなく、少しだけそこに置いておける。
翌朝、報告書を戻させた。読み直した。退けるほどの内容ではなかった。地方官に「確認した」とだけ返した。謝罪はしなかった。まだそこまでは行けない。でも、返した。それが今の王にできる範囲だった。
一度だけ、夜の廊下を歩いていて、あの牢の方向を向いて立ち止まった。
松明の光が廊下を照らしていた。石造りの壁。かすかな冷気。あの牢は今、誰かが使っているかもしれない。あるいは空かもしれない。王は知らない。知ろうともしなかった。
何かを言いかけた。でも、言葉にならなかった。礼だったのか、謝罪だったのか、それとも何でもない独り言だったのか、自分でもわからなかった。言葉が来なかった。そのまま、また前を向いた。
眠れているか、という問いが、時々頭の中に来る。
批判を受けた夜。政務で判断を迷った夜。ルーカスに指摘を受けた夜。そのたびに、あの六文字が静かに浮かぶ。答えは出ない。でも、問いが来ること自体が、何かを保っている気がした。問いが来なくなったら、あの頃の自分に戻るのだろう。だから問いが来ることを、王は少しだけ——ほんの少しだけ、ありがたいと思うようになっていた。
柏木遥のことを知っている人間は、今も宮廷に何人かいる。
ライアンが時々、部下の衛兵に言うことがある。「眠れているか」と。たいてい任務の交代のときに言う。深刻な顔でもなく、儀礼的でもなく、ただ確認するように言う。聞かれた衛兵は、最初は少し驚く。そんなことを聞く上官は、珍しかった。
でもライアンは、ただそれだけ聞く。
答えが返ってきたとき、ライアンは頷いて、続きを聞く。「それは続いているか」「何か気になることがあるか」。それだけだった。処方箋も解決策も持っていない。ただ聞く。でも、聞かれた方は、少し何かが変わった感じがする、と言う者もいた。聞いてもらえたこと、それだけで少し軽くなる、という言い方をした者もいた。
先月、若い衛兵がライアンに「どうしてそんなことを聞くんですか」と尋ねてきた。ライアンは少し考えて、答えた。
「昔、誰かに教えてもらったから」
「誰に」
「死刑囚に」と言った。
若い衛兵は目を丸くした。ライアンは笑いもせず、深刻な顔もせずに、「聞かれたことがなかったから、聞いてみたかった。それだけだ」と言った。
若い衛兵はしばらく考えて、「では俺もいいですか」と聞いた。「なんだ」とライアンが言った。「ライアン殿は、眠れていますか」と衛兵が言った。
ライアンは少し止まった。
その問いを、自分が聞かれたのは何度目だろうと思った。あの牢で初めて聞かれた日のことを思い出した。扉の前に立って、外を見もせず、ただ番をしていた自分のことを。
「まあ、今は眠れている」とライアンは答えた。「ありがとう」
衛兵が少し驚いた顔をした。上官に礼を言われたことに、慣れていないようだった。
エドモンドは、ある日の廊下でその話を小耳に挟んだ。立ち止まって、少しの間、動かなかった。それから小さく息をついて、ヴィヴィアンに言った。
「一度でいいから礼を言いたかった」
「もう言えないけれど」とヴィヴィアンが続けた。
「でも、続いている」とエドモンドは言った。ヴィヴィアンはその月の市場で、桃を買った。旬ではなかった。少し硬かった。でも甘かった。口に入れたとき、子供のころの市場の匂いがした気がした。あの日、三種類の果物の前で自分が桃を選んだ、あの夏の市場の匂いが。
ヴィヴィアンはしばらく、その感覚の中にいた。
石の床は、今日も冷たい。
松明の光が揺れる。鉄格子の向こうは暗い。石造りの壁に、歴代の染みが重なっている。何十年、何百年と、ここに人が収められ、泣き、眠り、朝を待った。その痕跡が、壁に染みている。あの牢は今、誰かが使っているかもしれない。あるいは空かもしれない。でも、石の床は変わらずそこにある。
でも、陽が当たれば温かくなる。
冬の朝でも、わずかに差し込む光があれば、その部分だけ温かくなる。足の裏で感じるほどの、小さな温かさ。でも確かにある。柏木遥は、最後の朝、中庭の床でその温かさを感じた。
あの朝のことを、ライアンは今でも覚えている。中庭の光の具合を。石畳の色を。風の冷たさと、それでも柔らかかった朝の空気を。あの朝、彼女が少しだけ笑ったことを。「次は先生と呼んでいいですか」と聞いたら、そう言われたことを。
エドモンドは、あの声を時々思い出す。「あなたも座ってください」と最初に言ったときの、静かで、でも譲らない声を。自分が患者だと認めるまで半月かかったが、あの声は最初からそれを知っていた。
ヴィヴィアンは、「桃を食べ続けてほしい」という言葉を覚えている。なぜ桃なのかはわからない。でもあの人は、自分が桃の話をしたことを覚えていた。些細な話を、聞いていてくれた。それだけのことが、ずっと残っている。
王は、問いを覚えている。「眠れていますか」というたった六文字の問いを。あの問いが、四十年間誰にも聞かれたことのない問いだったということを、今も少し信じられないでいる。
柏木遥が六十日間やったことは、問うことだった。聞くことだった。それだけだった。薬もなかった。道具もなかった。格子の向こうから、言葉だけで届けられることをした。
前世では、もっとたくさんの人を診ていた。処方箋を書いた。検査をした。チームで話し合って方針を決めた。でも六十日間の方が、密度があった気がした。何もない牢の中で、言葉だけがあった。それで、できることがあった。
現代で患者に殺された精神科医が、最後まで精神科医だった。悪役令嬢は処刑された。でも柏木遥は、最後まで診ていた。
現代で患者に殺された精神科医が、最後まで精神科医だった。その事実が、石の床の上にある。
六十日分、医者をした。
目を閉じた。陽の光が瞼の裏を明るくした。風が少し頬を撫でた。足の裏から、石の温もりがわずかに伝わってきた。
できることを、できる間に。
六十日間の、答えがそこにあった。
(完)




